たまたまこの本を読んでいたんですよね。
有名な「べてるの家」ですが、鈴木敏明医師の言葉が、先のblogの大屋雄裕のこのテーマの答だなって思ったんですよね。
我々が何を望むかについてあらかじめ配慮されることは、我々の幸福を約束してくれるのだろうか。
鈴木敏明先生は、このように語ります。
「精神病の人は、自分を自分で助ける方法を身につけられる」ーーーこれが、べてるが長い間かけて見つけたことの一つです。
逆に言うなら、暴れたら誰かが助けてくれる、抑えてくれる、そういう関係性でやっていると、遠慮なく、思いっきり激しく暴れてしまうわけですね。
結局のところ、先取りして配慮して対応する社会は、本人が本人のコントロールを放棄して過激化していきます。そして、配慮する側はーーー精神病の文脈で言えば病院や医師ーーー更に配慮して、過剰に治療し、親切にして、もっと激しい症状を生み出す負のループが生まれます。
こうして病気の人も病院も互いに依存しあい、そうしている間は病気はコントロールできない。ここで重要なのは患者が病院に依存している点ではなく、病院も患者に依存していることに気づけるかどうかです。
一言でまとめると、これがパターナリズムですよね。
これは、精神病の人に限った話ではないでしょう。
大屋の「我々が望む配慮の先には、幸福を約束してくれるのか」という問いはやはりノーではないでしょうか。私の「望む」という行為が管理されるとき、パターナリズムにとらわれてしまう。そこに自由と幸福がない。べてるの家の当事者の声を聞く限り。
では、パターナリズムに囚われないようにするには、どうすればよいのだろうか。管理するものー管理されるものという関係をどのように解放すればよいのか。
・弱さを開示する
・困ったときは相談する
・一緒に考える
・感じたことを伝える
・受け止め、笑って、否定しない
実は、管理する側こそ「弱さの開示」ができない。「管理」にこだわるほど遠退く姿勢です。でも、対等ともまた違う。べてるの文脈でいれば、専門性のある人には専門知から見えてくるものがあるし、当事者には当事者の、その親には親の気持ちがある。それらの声の多重性が当たり前のようにあふれている世界こそ、パターナリズムから解放できるのではないだろうか。
声の多重性の許容量が広ければ広いほど自由で幸福な社会なのではないだろうか。
声を出して自分の弱さを開示すること、それは、ありのままの自分の小ささを受け止めて、世界に開いていくことだ。同時に、ありのままの小さな声を受け止める人たちが多い世界こそ、自由で幸福な社会だろう。