こちらの続きです。ここから本格的に著者のクリエイティブな提案がはじまります。まとめていきます。
第四章 現象学的言語ゲームーーー普遍性を創出する
著者はこのように提案する。
現象学は人間と社会の本質を探求する。
この営み全体を、複数の超越論的主観性による言語ゲーム、すなわち「現象学的言語ゲーム」と考えてみよう。
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そして、
複数の超越論敵主観性が遂行する言語ゲームが間主観的な批判のプロセスに開かれているとすれば、これは必然的に公共的なもににならざるえない。この公共的な言語空間を維持するための条件は、先に述べた言語ゲームと力のゲームの関係を明らかにするだろう。
何のために普遍認識を目指すのか、そして、その試みが挫折すると、どのような事態が待ち受けているのかーーー。
言語ゲームの指針は「善の原始契約」と呼ばれる。
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一般本質学と超越論的本質学
ここで著者は本質学には二つあることを指摘する。ハイデッガーやシェーラーを批判的に検討し本質学をシェーラーなどを代表するものを一般本質学とよび、フッサールの本質学を「超越的本質学」(212)として区分する。
超越的本質学には三つの特徴がある。
(1)差異の相互承認
エポケーによる「差異の相互承認」(214)。互いの差異について相互に認めてしまうこと、しかし、同時に同一性を実体的にあらかじめ措定しないことーーーエポケーは「実在をめぐる論争」を調停して、差異の「相互承認」を導くための態度変更なのである(216)。
(2)相対性を引き受ける
認識論的正当性と引き換えに、現象学は相対性のリスクを引き受ける(217)。私たちが意識を反省的に見ているとき、じつは相対的に相対主義にかなり近づいている。略 現象学的還元は超越論的主観性という極めて相対的な場面に身を置くことを意味する(以上の文章は217)。
(3)本質を確証する
超越論敵本質学における<普遍性>が、複数の超越論敵主観性の「相互主観的確証」を持って、ようやく成立することである(218)。
著者は以下のようにまとめる。
超越論的本質学は「相互承認」と「相互主観的確証」の学である。
検証と確証に開かれているからこそ、
超越論的本質学とは世代を越えて本質をつないでいく言葉の営みである。
なるほどです。
善の原始契約
暴力と言語
著者はトマス・ホッブスを引用しながら暴力と言語の関係について分析して補助線を引く。そして、闘争状態を抑止する手段として「言語の他に何か有効な手段はあるだろうか」(225)を問う。著者は一切の力は悪だとも、すべての決定を言語ゲームでおこなわれるべきだとは考えていない(225)。問題は「警戒すべきは不当な力の顕現であ」(225)る、と。これは難しい問題を孕んでいて「言語ゲームが弱くなり始めた途端、力のゲームが台頭してくる」(226)。ではどうすればよいのか。市民社会の倫理が普遍的なものが含まれているのだとしたら、その妥当条件を確かめる道筋を明らかにすればとい、と著者は考える。
フッサールとハーバーマスーーー意識と世界、どちらから始めるのか
著者曰く「ホッブズ以後、権力や貨幣のシステムと言語的コミュニケーションの対抗関係を描いたのは、ユルゲン・ハーバーマスである」(228)。ハーバーマスの「市民的公共性」について、
自由に意見を表明するだけでは、民主主義の基礎になりえない。複数の意見が公衆の論議を通じて「公論」としてまとまり、そこに一定の合意が形成されると、システムによる生活世界の植民地化を正当に批判できる。こが官僚制と資本制を監視するための抑止力になる。
229
とまとめている。著者は、ハーバーマスが批判するフッサールの認識論について検討して、「じつはハーバーマスのコミュニケーション論ともーーーハーバーマスが言うほどにはーーー大きな隔たりはない」(230)と説明し、以下のように指摘するのである。
間主観的生活世界の構造を普遍的に理解したいなら、方法論的に<私>の意識から始めるしかない。
230
と。<私>の意識から始めなければ、認識論のアポリアに巻き込まれるのだ。そのあたりの繰り返しは、前回のblogを読んでほしい。ハーバーマスも巻き込まれたそうです。
大切な点は、「ホッブズとハーバーマスが提起した『暴力に対抗する言語ゲーム』という描像は、フッサール現象学にはない視点であ」り、「何のための現象学か、という視座を与える」(231)。ということだ。私たちは
<普遍性>をつくるための普遍的な動機(=普遍動機)とは何か、ということ
231
という視座が重要なのだ。
善の原始契約とは何か
善の原始契約は「生成の根拠」である。
239
もう少し詳しく説明すると、
人間と社会の本質学の中心には(暴)力のゲームに対抗しつつ、全員でよりよいアイディアを出し合うことに関する最初の約束がある。
この最初の約束が、現象学の普遍動機となり、本質直観の努力を持続させることを可能にする。
力のゲームの発現と脅威を自覚すること、現象学的言語ゲームを起動して、それを維持することーーーこれが初めの、そして最も肝容な善なのである。
239
すなわち、
公共的な言語行為としての超越論的本質学の核心には、互いを対等なプレーヤーとして承認したうえで、人間と社会の本質についてよりよき考えを見出だそうとする集合的意志がある。
この意志を想定することができないなら、本質学は成立しないのである。
言い切りました!かっこいいですね!
本質学についてはより詳細な検討しているので、興味のある人は本を読んでみてほしい。
でもさー、なんで普遍性を目指さなければいけなの?めんどくない?という素朴な疑問については、
いったい何のために普遍性を目指すのか、そして、かりにこのゲームを放棄した場合、どのような場面に差し戻されるのか。
これらのことを曖昧な仕方で了解していると、普遍認識の可能性を投げ出しても問題は起こらないという錯覚に陥ってしまう。そうして私たちは、言語ゲームの重要な機能を忘れてしまうのだ。
240
ふんふん。
普遍性の断念は、じつは力のゲームによる世界の制圧以外のなにものでもない。
240
それ!それなんですよ!結局、普遍性を求めなければ、弱肉強食の力の論理で決まってしまう。
現象学の目的は、無条件に実在する絶対的真理を発見することではない。
現象学的還元はあくまでも方法的な態度変更なのだから、私たちはいつでも言語ゲームを泊めることができる。
しかし、もし止めてしまうのなら、力のゲームが支配する社会になりかねない。
ここに善の原始契約の原理的正当性があるのだ。
241:下線部は私が引いた
そして、普遍性が成立しない領域については
(一)相互主観的確証に至らない本質条件
(二)差異の相互承認の必然性
という二つの重要な契機に関する考察を深めていくことができる。
差異と普遍性をともに手放さないためには、こういう地道で不確定な作業を(世代を越えて)持続していかなければならない。
240
私たちは相対性を引き受ける。
善の原始契約の基本指針
(一)「力による決着」から「言葉による合意」へと意思決定の手段を変更する
(二)現象学は全員を対等な人間と承認する。
(三)複数の超越論的主観性が担う現象学的言語ゲームの目的は、普遍的に妥当する
本質を洞察することだが、これは必然的に公共的なものとなる。
(四)それぞれの領域は異なる普遍動機を持つ。
242:各項目の最初の文章を引用
現象学的ゲームの可能性
著者は、現象学の三つの根強い誤解を読み解き、現象学的ゲームの可能性を示す。
モナドたちのプラクシス
現象学は孤立したコギトのテオリア(観想)ではなく、複数のモナドのプラクシス(実践)である
258
デカルト哲学の焼き直しではないことを主張している。
幸福と自由を守るための<普遍性>
259
現象学の本質は、直観のうちに見出だされる内在的対象であり、特定の人や集団を抑圧する超越的な規定性ではない。それどころか、抑圧や差別の力学に対抗するために、現象学は構築主義と協働できる。
259
人間の「普遍条件」(たとえば、死、共同性、身体、自由[=自我の欲望])と、普遍条件から導かれる「普遍動機」(たとえば、善の原始契約)、これらが普遍性を可能にする。
逆に言えば、普遍性は人間の自由と幸福を守るためにある。人間は自由を求める存在である、ということに普遍性がなければ、人文領域での普遍認識がーーー不可能とまでは言わないがーーーかなり難しい課題になるのは間違いないのである。
262:下線部は私が引いた
この自由と幸福については終章でまとめています。興味のある人は読んでみてほしい。
形而上学への誘惑を断ち切る
タイトル通りなので割愛する。ついうっかり超越してしまうんですよねぇ。でも、<私>の意識が基本なので、そこに踏み止まる、という話です。
言語ゲームの外部に立つ絶対他者
読書ノート(1)でも触れたが、スピヴァクのサバルタンの存在を考慮しても普遍性を担保できるのか、という質問に対しては、
言語ゲームに参加できない他者の権利を考えるという発想には、普遍性の理念がすでに含まれている。
266
と反論する。大切なことは、
絶対他者が存在する可能性を可能性として保持することのうちに、言語ゲームと絶対他者のあいだの緊張関係が成立しているのだから、絶対他者の可能性を無化してはならない。
ということだ。
<普遍性>の本質とは何か
著者は5点にまとめている。
(一)普遍性は人間を超えて存在する実体ではない。
(二)普遍性は事実として存在しない。
(三)普遍性は閉じられていない。
(四)普遍性は無条件に存在しない。
(五)普遍性の根拠は実存にあるのだから、普遍性の側から実存を規定してはならない。
269-270:各項目の最初の文章を引用
まとまりました!素晴らしい!
特に最後の(五)が素晴らしいと思います。既に確立されているような価値観であっても、それに納得していないのならばその普遍性に規定されてはならないし、違和感や疑問を現象学的言語ゲームを通して問い直すことができる(なぜなら普遍性は開かれているから。(四)にあるように。)
終章 もう一度、自由を選ぶ
こちらは著者のいまどきの自由についての分析です。抑圧された社会で暮らしていれば自由は尊いものですが常に自由な社会では自由疲れもありますよね、そのあたりについて分析しています。そちらも興味深いのですが、私が惹かれたのは「現代の幸福の類型」です。そちらを簡単にまとめて、読書ノートを終わりにします。
現代の幸福の類型ーーー「関係性の充足」と「ソロ充の快楽」
「自由に疲労を感じている者は、どのように生を充実させるのだろうか。そこで出てくるのが『幸福』というキーワードである」(281)。この文章、とってもぐっとくるんですよね。生の充実とは『幸福』なんだ。では幸福とはなんなのか。
自由がそのつどの規定性を超えていく運動だとしたら、
幸福は欲望が充足して安定している一時的な状態である。
278
こんなに「自由」と「幸福」をわかりやすく定義した人がいるだろうか。すごい!。特に自由の定義は秀逸です。幸福は自ずから充足している状態なんですよね。
幸福の本質は、欲望が充たされて安定した状態(あるいは逆に、欲望そのものに捕われることのない安定した状態)が絶対的かつ永続的に持続するという一つの理念としても現れるだろう。
278
ふんふん。
幸福のイデアが現実の幸福を上から規定するわけではない。
279
これ重要ですよね。
そして、現代の幸福の類型を「関係性の充足」と「ソロ充の快楽」の二つを示すのだ。
どちらもすごくわかりますよね。特に新しいのは「ソロ充の快楽」であり、一昔前だと一人でいること自体が孤独とか寂しさと見なされ、その状態が恥ずかしいというネガティブな状態で語られることが多くて「幸福」の類型に入ってこなかったと思います。そこが新しいと思いました。
また、見田宗介の幸福の類型と似てますよね。
以上が読書ノートのまとめでした。
簡単に私の感想も書いておきます。
この本の書影の帯にはでは「連帯を支える原理とは?」とありますが、「連帯」ありきの思想ではないんですよね。何度も繰り返し語っていることは、普遍性を「実在」として扱うと認識論のアポリアに突入しています。ヨーロッパで生まれた哲学ですが、最新の現代哲学の学者たちも陥る罠なわけです。そこに陥らず、だからといって相対主義に陥らない手法としての「現象学的還元」であり、それは徹底的に<私>の意識から始めるしかないわけです。この点を置き忘れると、形而上的な方向へ向かってしまい、結局のところ複数の思想の対立にならざるをえない。
この本のサブタイトルの「幸福」や「自由」は最初は唐突な感じがしました。読み進めていくとわかってくるのですが、徹底的に<私>の意識から始めるということは。複数の<私>の意識をいかに調整できるのか。人々の利害対立を解決するには二つの方法しかない。それは暴力と言葉だ。普遍性を求めるということは、それぞれが暴力を一旦脇において話し合うということだ。その努力を怠るとき、力が復活して力で決着するしかなくなる。それでいいのか?普遍性を求めるということは、力の決着ではない手法を求めるということであり、その言語ゲームの条件を「善の原始契約」と著者は名づけます。この善の原始契約そのものが人々の対等性を基本とし、自由が前提になっている。普遍性を求めること自体が「公共的なもの」ならざるを得ません。
私は、この<私>の意識の複数の<私>を「善の原始契約」を前提に調整していくという見立てが非常に社会学的だなぁと思いました。複数の人の調整ですからね。
しかし、著者は徹底して<私>の意識にこだわるし、哲学的にはそれ以上の方法はありません。社会学でいうところの「創発特性」を著者は認めません。そのあたりのところは、いったいどうなるのだろうか?社会学者がこの本を読むとどう思うのか知りたくなりました。
社会学との関係はおいておくとしても、この本はとても勉強になりました。普遍性を求める意義が非常に説得力がありました。普遍性を求めなければ力のゲームになってしまう。とても重要な指摘でした。