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『<普遍性>をつくる哲学  「幸福」と「自由」をいかに守るか』の読書ノート(2)ーーー現象学の原理・普遍認識の条件

 読書ノートの続きです。岩内章太郎さんの本の骨子を勉強するためにまとめていきます。

<普遍性>をつくる哲学: 「幸福」と「自由」をいかに守るか (NHKブックス 1269)

 

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

第三章 現象学の原理ーーー普遍認識の条件 135ー195

 前回のblogでは、「多様ではあるが、相対的ではない世界」という俊逸な問いを立てたところで終わりました。そのな世界をつくるための方法が「現象学」(133)だと示します。

 著者は、「新しい実在論構築主義の対立を読み解くための手がかりは認識論にある」(135)とし、現代実在論は「それがまさに認識論から離れてしまったがゆえに、深刻な信念対立に帰着」(136)すると指摘する。そして、この「認識論の謎を解明する」(136)のが「現象学」と指摘し、現象学の解説をし認識問題を深堀りしていく。

 

認識問題」と現象学的還元」の「関係を深く理解すれば、「普遍認識」の条件が見えてくる

現象学的還元の根本動機は、「主客一致の認識問題」の本質を明らかにして、普遍学としての哲学を再建することである

136ページ:下線部は私が引いた

 

認識論のアポリア

「主客一致の認識問題」とは、主観と客観がそれ自体を認識できるのか、という認識論上のアポリア(難問)である。

厳密に言えば、主観と客観の一致を証明することは可能か、という問題の形式をとる。

137ページ

 

という問題のことらしい。なんで主客一致問題が生まれるのか。思いっきりはしょってまとめるとこういうことだ。

認識の可能性を疑うことがなければ、認識問題は出来しない。

140ページ

ん?つまり?

認識問題が妙な感じを与えるのも、ふつうに生きている分には認識の根拠を疑うきっかけがないからである。複数の人々の意見がひどく食い違ったり、リアルな夢と曖昧な現実の区別がつかなかうなったりするとに初めて、認識の本性とは何だろうか、という問いが現れる。

つまり、懐疑が認識論を展開するのである。

140-141

はー、なるほどね。そして、ここから懐疑主義の論理としてプロタゴラスピュロン主義について触れていきます。

ピュロン主義は大きく三つのことを主張する(144).

(一)対立する複数の現れは、信憑性と非信憑性において同等である。

(二)認識者は特定の現れの優位を基礎づけることができない。

(三)対象それ自体の本性については、判断を保留しなければならない(=エポケー)

144ページ

思いっきりはしょるが、ピュロン主義の結論をまとめるとこうなるそうだ。

私たちは存在がそれ自体として何であるかを決して知ることはできないのだから、存在の本性についての判断を保留しなければならない、と。

これは「エポケー」と呼ばれる。

145-146

これが有名なエポケーだ。なんとなく言葉だけは知っている。このピュロン主義の懐疑主義は、近代哲学の認識論を方向付けたと著者は指摘する。それは裏返すと、

プロタゴスやピュロン主義が提示した懐疑主義をいかに克服するのかーーー

この問いが近代認識論の通奏低音となり、やがてそれは現象学的還元という方法に結実するのだ。

146ページ

なるほど、そうなのか。著者を通して哲学史を学んでいこう。

デカルトの方法的懐疑

著者曰く

デカルトの独創は、懐疑主義に独断主義で対抗するのではなく、懐疑主義の立場にあえて身を置いてみて、それまでの類型を破る認識原理を模索したところにある。

懐疑主義を克服するためには、むしろ懐疑を徹底してみる必要がある、というのだ。

これを「方法的懐疑」と呼ぶ。

147ページ

 

こうして導かれるのが、おそらく哲学史上最も有名な格言の一つ、「我思う、ゆえに我在り」である。端的に言えば、

疑っている作用それ自体は疑いようがない、ということだ。略

<私>が考えているという事実は、いかなる懐疑の可能性によっても覆されることはない。そして、少なくとも考えているあいだは、考えている<私>の存在を否定することもできない。

148ページ

懐疑主義を乗り越える「方法的懐疑」を理解できた。そして、もう一つの補助線を著者はひく。

なぜ信念対立は起こるのか

 認識論は、一般的に「独断主義と相対主義という二つの考え方が現れる」(149)という。

独断主義とは真理、実在、実体、本質などの概念を擁護して、合理的世界認識の可能性を追求する(149)これに対して、

相対主義は、認識と存在、そしてそのあいだに挟まっている言語を論理的に相対化することで、独断主義の前提を突き崩すそうとする。

149

ふーん。哲学史とはようするに「独断主義と相対主義の相克が、さまざまな仕方で変奏されてきた」(150)らしい。へー、そうなんだ。ここからが、著者が主張したいことなのだが、

その対立を調停する原理が近代哲学の努力のなかに隠されていることは、あまりよくしられていない、現代哲学の混乱の根本原因はすでに近代哲学は解明しているのだが、その成果は、帝国主義全体主義という「人間性の敗北」に帰着した近代全体の反省とともに葬り去られたようにみえる。

150ページ

 先の対戦はヨーロッパの知識人を深く傷つけてトラウマになっているわけですね。敗北感に苛まれて、近代哲学の遺産を直視できないのでしょうか。

 現代哲学は「言語論的転回」や「思弁的転回」(150)を宣言して近代哲学を時代遅れと見なしているようなのですが、著者曰く、

認識の本質を考え抜いた近代哲学こそが、信念対立の理由を解明して<普遍性>に至るための準備を整えていたのだ。したがって、現代哲学が真に必要とするのは、いわば「認識論的転回」なのである。

150

そうだ。私はあんまり現代哲学について興味がないので(タコツボの中の話は一般人にはどうでもよいので)、次の暴力の問題の方が重要な指摘だと感じる。

深刻な信念対立はしばしば暴力と結び付いて顕現する。

150ページ

これは現在でも事例に事欠かないだろう。

ともすれば殺しあいになることがある信念を互いに承認するための原理と方法を示せるかどうか、である。

現実世界で対立しているのは各共同体が持っている道徳にほかならない。

そこで道徳の実在を主張してみても、それではどの共同体の道徳を普遍的実在とみなすのかをめぐって、再び深刻な信念対立が起こるだけである。

150-151

そして、

複数の人間が何かを決定するとき、私たちは話し合いによる「合意」か、戦いによる「決着」か、という二つの選択肢しか持たない。

つまり、

話し合いによる合意の可能性を断念すれば、必然的に、力の優劣による決着でものごとが進んでいき、すべては闘争によって決まってしまう、と。略

合意形成の不可能性は力の論理の勝利以外のなにものでもない

151:下線部は私がひいた

この論点の方が私にとって重要に感じるところなんですよ。普遍性を断念すると、暴力に屈するしかなく、力の論理で決まるのは、それはどうなのよ?って思うわけです。この点において、普遍性は追求すべきだという立場を支持したくなるわけです。

だから認識問題は、抽象的な哲学のパズルではなくて、暴力の発現をいかに抑止するのかという現実的かつ実践的な問題にリンクしている。 

151:下線部は私が引いた

ここがすごく重要だと思うし、この重要な指摘をはっきり示してくれた著者はすごいと思うんですよね。これが哲学をする意味だと私は理解しました。

 そして、普遍性をつくる道具として現象学の解説にはいるのだ。

現象学的還元ーーー<私>に世界はどう現れているのか

 ここは大きくはしょりながらまとめていきますが、現象学とは

客観や実在を前提せずに、誰もが直接確かめることができる意識体験において、世界確信の根拠を洞察する以外に道はない

154ページ

ことを前提にした認識論だ。現象学は、

さまざまな存在者(事物、動物、他者など)と一つの同じ世界を共有していて、世界の中で他の存在者に働きかけたり、他の存在者から働きかけられたりする、という自然な信憑を誰もが持っている。

客観的世界についてのこの素朴な存在定立は「自然的態度のなす一般定立」と呼ばれる。

156ページ

このような「世界経験は先に示した主観ー客観の図式と本質的に同じものである、ということに気づくだろうか」(157)と促し、だからこそ

現象学者は、主客一致の認識問題を解くために、自然的態度のなす一般定立を遮断して、世界を意識との相関性において捉えるという特有の構えを見せる。

157

そうだ。これを「自然的態度のなす一般定立を遮断する手続きを「エポケー」略、と呼び、エポケーを遂行したうえで、世界の一切の存在者を意識に還元することを『現象学的還元』と呼ぶ」(157ー158)そうだ。現象学的還元とは、

<私>が<私>の認識の外部に立つことは決してできない。ならば、外側に抜け出そうとするのではなく、むしろとことん内側に潜ってみよう、というわけだ。そうして、すべての存在者は<私>の意識で構成された対象という新しい意味を獲得する。

158-159

そうだ。で、そうやって普遍認識の可能性があるのかというと、

まず、<私>の意識体験において超越がいかに構成されるのか見てとり、

それから、<私>と<他者>が同一の対象と世界を確信する条件をーーーしかし、あくまでも<私>の意識体験においてーーー探求しよう、ということである。

したがって、略、複数の<私>が同じように持っている条件が、<普遍性>をつくっていくための基礎条件となるのである。

162-163

何のために現象学的還元を遂行するのか

 これまでの繰り返しになるが、現代哲学の現代実在論の問題は「独断論」であり、「多様な世界認識の可能性が消滅」するし、複数ある独断論が対立するはめになる。では、相対主義はどうかといえば、結局のところ「普遍性を喪失した相対主義は『力』に対抗でき」ないことは、これまでも見てきた。

 これを乗り越えたのがフッサールの「現象学的還元」だと著者は主張する。

独断主義と相対主義という二つの主張が現れる根本原因を主客一致の認識問題に見て取り、主観ー客観のパラダイムを転換することで、認識論のアポリアをその内側から破ったことである。

現象学的還元による認識論の構造転換は、特定の認識を絶対化することなく、普遍認識を成立させる可能性を拓くのである。だから、

現象学的還元は、実在をめぐる論争を抑止しつつ<普遍性>をつくるために採用される目的相関的な方法原理とみなさなければならない

<普遍性>の哲学を再建するためには、いったんすべてを意識に還元して<私>の対象確信の条件を取りだし、そこからもう一度、他者(間主観性)に向かって問う以外に道はない

174:下線部は私が引いた

と主張する。

本質直観ーーー<普遍性>をつくる哲学の方法

 フッサールは、

事実と本質の本質の区別は、それぞれの別の直観が対応する。

事実の直感は「個別直感」、本質の直観は「本質直観」と呼ばれる。

個々の事実を見る直観と、さまざまな事実に共通する本質を見る本質直観が、一切の認識の正当性の厳選なのだ。

177

そうだ。そして、この直観が認識論的に正当性を担保できるのかという問いに対して、

大きくはしょって結論だけ書いてしまうが、「そう言えるのである」(192)と著者は言う。

「<私>にはそう見える」ということが、すべての認識の究極の厳選であることには変わりはしない。ただし、それは

<私>の直観が絶対に正しいということを意味しない。他者の直観の方に説得される可能性を含むのである。直観の内容は固定されたものではなく、それは正当な理由と根拠によって変容しうる、ということが決定的に重要である。実際、他者とのコミュニケーションのなかで物の見方が変わることは、決して珍しいことではない。

192

ん?それじゃぁ、構築主義と同じじゃね?という点については、

構築主義者は、意識、直観、本質は何らかの仕方で構築されており、それはいくらでも疑いうると主張する。だが、

直観の正当性を疑っているその批判的意識だけが構築を免れることはできない。略

直観が最終的な根拠になっているのだ。これを否定するならば、構築主義者は自分には見えていないものを断定していることになる。略

こうして、一切の認識は直観に戻ってこざるをえない。

192

著者は主張する。そして問題の確信をこのようにまとめるのだ。

「<私>にはそう見える」から出発して、「<私たち>にはそう見える」にーーーしかも、力のゲームを抑止しつつーーー進んでいくことができるのか

間主観的普遍性という理念を目がけて意味のやり取りを重ねることで、各々の直観の内実を徐々に編み変え、豊かにしていけるかどうかーーーこれが<普遍性>をつくる哲学の中心的課題にほかならない。

193

 なるほど。やけに納得です。言われてみると普通のことなんだけど、説得力がありますよね。この時点では、ハーバーマスっぽいなって私は思ってました*1

 

そして、哲学史的に著者が位置づけるとこういうことらしい。

現象学的還元と本質直観というフッサール現象学の中核原理は、近現代認識論の最高の達成の一つである、と私は考える。

新しい実在論構築主義による現代の普遍論争は、この「認識論的転回」が持つ革新的な意味を双方が理解しなかったゆえに、起きてしまったのである。

195

そうだ。

 

 

今日はここまで!勉強になりました!

ここまでは哲学史を振り返り、問題の整理でした。

次回からは著者のクリエイティブな提起になります。

 

*1:著者曰く違うらしい。228ー231、248ー249ページ参照。