kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

『<普遍性>をつくる哲学  「幸福」と「自由」をいかに守るか』の読書ノート(1)ーーー実在論と構築主義の相克

 岩内章太郎さんの新刊を読んで、自分のなかでもやもやしていてよくわからなかった概念がクリアになりました。スッキリして視野が広がった感じがします。

 読書ノート的にまとめていきたいと思います。

<普遍性>をつくる哲学: 「幸福」と「自由」をいかに守るか (NHKブックス 1269)

第1章 新しい実在論の登場ーーー普遍性は実在する 17ー75

 ポストモダン思想[ローティ、フーコーラカン]に対抗する思想として「新しい実在論」[マルクス・ガブリエル、メイヤスー、グレアム・ハーマン、チャールズ・テイラー、ヒューバート・ドレイファス]が登場した。

 著者は実在論の課題をこのようにまとめている。

複数ある実在論の主張が「実在をめぐる論争」を引き起こし、しかもその内部には、深刻な信念対立を調停するための原理が見当たらないことである。

現在実在論構築主義への対抗思想以上の意味を持ちうるのか。言い換えれば、相対主義と独断主義の対立を根本的に克服した哲学と言えるのか。 19ページ

新しい実在論における「実在」の対立について、

真に存在するのは、意味の場か(マルクス・ガブリエル)、オブジェクトか(ハーマン)、数学化された物自体か(メイヤスー)、自然法則か(テイラー、ドレファス)。この問題が解けないことには構造的な理由がある、と言うべきなのである。 

74ページ:()は私が追加した。

と「実在をめぐる論争」を指摘する。では、なぜ現在実在論は行き詰まってしまったのか。

観念論を警戒するあまり、近代認識論の成果を反故にしてしまい、「間主観的普遍性」(人間の確信としての普遍性)ではなく、「実在的普遍性」(人間を超越する普遍性)にその活路を見出だしたからである。

すなわち、<普遍性>をつくる可能性ではなく、普遍性を単に実在するものとみなす可能性にかけてしまったのだ。現代実在論は、一つの例外もなく、観念論と実在論という枠組みそのものを乗り越える原理を持たない。

74ページ:下線部は私が引いた。

 

 このまとめ、すごくないですか?

あんなにややこしい現代哲学をこんなにスッキリ理解できると思っていませんでした。

今までこんなに明快に説明してくれた本には出会ったことはありません(哲学は苦手なので読んだ本が少ないだけかも知れませんが)。

 岩井章太郎さんの凄さは解説の上手さだけではありません。実在論をめぐる論争を回避するためにはどうすればいいのか提案しているのです。

 

第一に、近代認識論が苦闘した主客一致の認識問題の意味を理解し、

第二に、その問題を原理的な仕方で解明して、主観と客観という図式そのものをひっくり返す必要がある。

すなわち、はたして人間の認識は実在と一致するのか、と問うのを止めて、どう考えれば全員の合意をうまく創出していけるのか、ということを焦点とするのだ。

75ページ

注意点として以下のことも付記している。

普遍性という概念のなかには、抑圧と排除のリスクが潜んでいることである。

普遍主義の危険性を認識せずして、二十一世紀の<普遍性>の哲学はありえない。

74ページ

 

このリスクを知るために次章は構築主義にいくわけです。

 

第二章 構築主義の帰結ーーー普遍性を批判する 77ー134

 この本を読んで私なりに理解したことは、構築主義がつきつけた問題は二つある。一つは、近代哲学の普遍性が「全体主義」に転化する可能性があること、もう一つは、徹底して相対主義を突き詰めていくと「絶対他者」が出現し、普遍性を阻みつづけるということだ。

理性への懐疑ーーー全体主義への転化*1 

 このあたりはわりと有名なのでさらっと書くが、ホルクハイマーとアドルノの『啓蒙の弁証法』は近代的理性に対して疑義を表明した本だ。第二次世界大戦の経験から、なぜ理性は全体主義の暴力に屈したのか、鋭く問われたのであった。著者は以下のようにまとめている。

暴力に対抗すべき理性が、暴力に奉仕する道具に変貌する。「理性の普遍性」は「支配の全体性」となる。それを絶えざる否定によって相対化することが、戦後の欧米哲学の主要な課題の一つになったのである。

84ページ

明快な説明ですね。そして、フーコーらを踏まえて

新しい普遍主義を打ち立てるのであれば、特定の集団がそこから排除される可能性は、いつも考慮される必要がある。そうしなければーーーどれだけそこに論理的な整合性があってもーーー<普遍性>の哲学は全体主義に転化する。

112ー113ページ

と述べる。しかし、

 

その一方で、普遍性を遠ざけてしまう構築主義では、それ自身の主張を基礎づけることはできない。構築主義も、その倫理的動機も、歴史的に構築されてきたものの一部であり、特定の言語ー認知体系のうちでのみ成立する、と言うほかなくなるからである。だから、古い普遍性の独断的性格を批判することはできても、新しい<普遍性>を作ることはできない。それはいわば再建なしの解体なのである。

113ページ

これが構築主義の大きな課題である。

絶対他者の否定神学ーーーサバルタンは語ることができるのか*2

 構築主義の本質について以下のようにまとめている。

構築主義の論理の先には、他性の理念化をその本質的な契機とする、一切の構築から逃れ出る絶対他者の「否定神学」が待ち受けている。

絶対他者とは、いかなる規定性によっても規定されない、「無限性」という本質を持つ他者である。すなわち、他者が最も虐げられた他者という一つの理念に結びつくと、いかなるカテゴリーからも超越する絶対他者の可能性を措定せざるをえなくなるのだ。

114ページ

 

 著者はさらにわかりやすく説明しているので超訳すると、構築主義はカテゴリーで分析していくので、カテゴリーを細分化し続けていくと、最終的には「何物とも規定がたい他性」(115)という観念にいきつく。その他者とは「その他者が社会から見放されて、苦しんでいることだけは分かる、しかし、略、その状況を語ることはできない」(115)他者だ。しかも、その細分化は無限に続くので把握することはできない。

 「無限をその本質とする他性の理念が、最も虐げられた物という観念に結びつくとき、そこに表れてくるのが『サバルタン』である」(121)と説明している。このサバルタンについて著者は、

スピヴァクが議論するサバルタンは、<普遍性>の哲学に対する究極のアンチテーゼである

この思想は、構築主義による近代哲学批判をさらに批判することで。、「他なるもの」という概念をもう一歩先に推し進める。すると、普遍的合意の可能性を目標に定める「言語ゲーム」(言葉の営み)は、大きな困難を抱えることになる。

121ページ:下線部は私がひきました。

 スピヴァクが措定するサバルタンとは、「サバルタンの代わりに語ることも、サバルタン自身に語らせることも、ヨーロッパの知識人のエゴイズムに過ぎない」(125)し、「虐げられた者の主体性を構築するのは、もう一つの暴力でしかない」(125)のだ。つまり、サバルタンとは、

サバルタンとはそのような言語ゲームの外側にいるるのである。125

絶対他者の否定神学ーーー普遍性の断念は、力による決定しかなくなるーーー*3

 著者は、サバルタン概念の意義について、「独断的普遍性によって抑圧されている人々の側に立とうとする哲学のモチーフは、その最も深いところでつかまえられる必要がある」(126)と述べる。その深いところというのはなんなのだろうか。

相対主義相対主義に跳ね返ってくるからである。「すべて相対的なものである」という主張も、相対的なものにすぎない。

善悪に関する一切の根拠が単に相対化されてしまうなら、絶対他者が抑圧されていようがいまいが、関係なくなるのである。

126ページ

そして、

絶対他者という考え方は一つの「否定神学」に帰着する。 略

双方(レヴィナススピヴァク:括弧内は私が補足)の思想には、決して到達することのできない極限の他性という概念が含まれており、これがラディカルになると、誰が究極の最弱者なのかをめぐる否定神学に陥るのだ。「絶対他者の否定神学」である。

126ページ

否定神学の論理を下記のようにまとめる。

否定神学において、神は「語りえないもの」であり、肯定と否定の二項対立を超越した否定によってのみ近づきうる存在として描かれる。126ページ

神は感覚と知性で捉えることのできる存在と非存在を超えた存在である。それは日常生活において獲得される知では決して把握されえない。一般的な存在範疇をすべて忘れ去ってみなければ顕現しない「何か」なのである。したがって、神の超越は無知によってのみ近づくことができる。

ここで、古今東西の真理の話を挟む。

真理というものは、人間世界における存在、認識、言語から絶対的に隔絶している、という考えは、古代インドのウパニシャッド哲学やイスラームスーフィズムにも見られる。

真理はたいていの場合隠されており、(過酷な修業や苦行に耐え抜いた)一部の者だけが到達可能なものとして描かれる。

真理はある種のラディカリズムを必要とし、それを徹底できないものは「覚りの言語ゲーム」(橋爪 二00九 百八十頁)から除外されるのである。

127ー128

以上から、以下のように説明するのだ。以下の文章に私は唸りました。

思考のベクトルが<普遍性>の哲学と逆向きになっていることが分かるだろう。絶対他者の否定神学における他者は神や真理に限りなく接近しており、このとき普遍性は、真理から見放された人間の通俗的一般性を意味するようになる。

すると、誰が最も苦しんでいるのかを顧慮しない一切の立場は、倫理の頽落形態とみなされる。しかも最弱者救済の言語ゲームに参与する者は<私>だけが真理を知っており。正義は最弱者とともに<私>の側にあると考えているので、ほとんどの場合、普遍性を創出すること自体を厭う(自分と最弱者以外のすべての人間を信用しない)結果、善悪の根拠は失われ、哲学は(権)力に負けてしまう。

 今はやりのポリコレ(ポリティカルコレクトネス)や社会運動や「リベラル」と言われる人たちの根本的な批判に聞こえますね。

 結局、相対主義は善悪の基準も相対化するため、そうなると結局のところ力関係だけで決まってしまう。構築主義が生み出した権力批判は、サバルタンという絶対他者の概念を生み出しても、善悪の根拠を相対化することで、結局のところ、力関係しか残らなくなる。これでは、権力批判のための構築主義なのに、結局は権力関係にのみこまれていく。自分たちの「最弱者」を巡って万人の万人による闘争状態に陥るんですよね。 

 

普遍性を断念することは、実質的には、力による決定を受け入れることに等しい。

129ページ:下線部は私がひいた。

 

名言です。この言葉を胸に刻みました。

 

では、どうすればよいのか、

多様ではあるが、相対的ではない世界 

130:下線部は私が引いた。

はいかに可能なのか。

 

「多様ではあるが、相対的ではない世界」という言葉にハッとしました。この問いの立て方は可能なのか!?

可能なのか?

可能なのか!

 

 

いかにして可能なのか、岩内章太郎はさらに解きほぐしていきます。

 

が、今日はここまで!

 

 

*1:この見出しのサブタイトルは私が書いたものです。

*2:サブタイトルは私が書きました。

*3:タイトル、サブタイトルは本の内容を踏まえて私がつけました。