kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

なぜ日本は戦争を選択したのか(9)地方税の増税と都市との格差拡大で疲弊する農村ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 シリーズ(7)では内政重視の平和外交=軟弱外交で悪化した財政を立て直すために緊縮財政(軍縮)をすすめ、複雑化する中国の混乱に不介入を貫いたことで、枢密院や陸軍の不満が高まっていった。昭和恐慌の対応で失敗し、与党の憲政会が下野し、政友会が与党となり、昭和恐慌の対策を講じた。(8)では不穏な中国大陸情勢に対して与党になった政友会は積極外交を選択し、居留民を守るために出兵したが済南事件が起こり、国内世論は中国への批判が高まる中、蒋介石に負けた張作霖満州へ帰る途上で陸軍に爆殺された。張作霖は当時の首相田中義一とも顔見知りで、田中の呼びかけに応じて帰途する途上で陸軍に爆殺されたことにショックを受けた田中義一は、陸軍を批判するも最終的に責任を取り辞任、心労が祟ったのか亡くなってしまう。

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 ドラマチックな展開していますが史実なんです。不穏な流れになりつつあります。今回も松元崇さんの本の第9章を中心にまとめていきます。

 

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

 今回は財政の話が中心になるが、何のために地方の疲弊について書くのかというと、農村の疲弊が軍部への期待とつながるからです。農村が疲弊し、どのように地域格差が広がったのかが今回の焦点です。ややこしい話が続くので前置きしておきます。

地方の行政事務費の増大

 大正8(1919)年、原内閣の高橋是清蔵相は地租及び営業税の地方への税源委譲を訴え、政友会の公約に掲げていた。しかし、関東大震災の影響で地租委譲案は先送りされ、最終的に廃案となった。

 税源委譲案の背景にあったのが、日露戦争後や第一次世界大戦後に新たに増大した行政需要を地方が負担していたという問題があった*1

 日露戦争は賠償金が得られず財政的な負け戦だった。新たに増えた地方事務について国は財源措置を行う余裕がなかった。国の財政は軍事費と公債費に追われ内政のための支出が捻出できず、増大した事務費は地方が自前の税負担で賄うしかなかった。 日露戦争増税し、借金して財政的に綱渡りな戦争だったことはこちらにまとめましたが、その重ねたムリのツケを払ったのが地方だった。  

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 第一次世界大戦で大戦景気が起こると、地方歳出は大幅に増加した。大正4(1915)年度に3億円程度だった地方歳出は、8年度には6億円、11年度には13億円台と国家歳出の伸びをはかるかに超える増加を見せた。たった7年で4倍に膨らんでいる!。明治期の地方歳出は国の半分程度だったが、大正11(1922)年度には国の歳出規模を超えてしまったのだ。

 その背景にあったのが、教育費の増加と国の社会立法による国政委任事務費の増加であった。当時の内閣、若槻内閣は国政委任事務の過重と財源の欠乏について「是は急に世界に於ける一等国の地位を得てそれ相当の設備をして行かねばならぬ国になった日本の国情としては、どうもやむを得ない」*2と答弁している。大戦景気で一等国になった日本が、一等国に相応しい国にするための必要経費ということなのでしょうか。

 一番伸びたのは教育費だったが、それに加えて衛生費、や産業経済費、社会事業費を合わせた歳出が地方の歳出総額に占める比率は、大正3年度の34.8%から、大正13年度には40.1%に増加した。10年で5ポイント増加。

地方附加税の大増税

 伸びた地方歳出を賄うために行ったことは、地方税増税を可能にするために

地方税に課していた課税制限を緩和することであった。

 地租、営業税、所得税(以下、三国税)に対する地方附加税への制限税率を、それまでに比べて府県について8割増し、市町村について6割増しとした(大正8年)。これにより増税し三国税は増収したが、増大する地方の財政需要に追いつかなかった。大正9年には更に地方附加税の制限税率を緩和し、大戦前と比べると三倍以上の増税を可能にした。

 大戦景気で経済規模が約3倍になっていたためこの増税は順当のように思われるが*3第一次世界大戦景気で経済発展したのは二次産業であり、都市を中心としたものであった。経済発展から取り残された農村部にとっては、極めて重い負担を意味するものだった。

地方独立税の大増税

 三倍以上になった地方附加税よりもっと重い負担だったのが地方独立税だ。地方独立税は府県税戸数割を中心にした税である。

 地方税総額は大正2年(1913)度の1億8000万円だったのに対して大正10(1921)年度には6億3000万円と約3.5倍となったが、そのうち国税への附加税の増税で増加した分は1億4000万円で、残りの3億円は地方独立税の増税によるものだった。三倍もの増税が行われた国附加税のさらに倍以上の額の増税が地方独立税で行われた。特に、増税の標的となったのは府県税戸数割とそれに対する市町村の附加税だった。

 とんでもない大増税だった。もちろん住民の反発を買ったことから地方への税金委譲は進めようとしたが、上記した通り、関東大震災の影響もあり実施されなかった。

自治体破産

 増税し、超過課税を行っても歳出増大のペースが速く、県の税収が県の全歳入に占める比率は約3割、市町村においては2割を切るまでに落ち込んでいった。そのような中で増加したのが地方債発行による歳入だった。ようするに借金で不足分を補ったのだ。

 地方債発行の増加は目覚ましい。大正8(1919)年度には8000万円だった地方債は昭和2(1927)年度には6億4600万円まで急増した。借金だのみの地方財政は昭和5、6(1930ー31)年頃から地方債の償還不能という形で表れた。

 そのような状況の中、大規模な公共事業の失敗による自治体破産が起こった。北海道留萌町である*4。留萌港の拡張工事のため大正10年に内務省、大蔵省の許可を得て起債

し、13の保険会社が共同融資を行ったが、不況の深刻化で返済不能に陥ったのである。債権者は世論の動向を考慮して強制執行はせず話し合いが進められ、最終的には10年度に北海道長官の斡旋で町有地による代物弁済と当該土地への町税免除を条件に和解した。なお、留萌町の破産に対して国は肩代わりを拒否した。ひ。ひどい。。。戦前から試される大地です。。。なんとなく留萌が荒んでいる理由がわかったかも。。。

国は実質大減税だった!

 ちょっと信じられないのだけど、地方がこれだけ大増税だったのにも関わらず、国は実質的な大減税が行われ、国と地方を合わせた全体としての政府規模は縮小していた!そのことは、実は国は増税しようと思えばその余地はあったことを意味する*5、という。おいおい、勘弁してくれよ。

 実質減税のからくりはこうだ。大戦景気でGDPが三倍に伸びたが、それは「定額」だった地租等の国税の実質的な大減税をもたらし、国の実質的な歳出規模の縮小をもたらした。大正3年度から13年度にかけて国の歳出総額がGDPに占める割合は13.7%から10.4%に低下した。国と地方を合わせた歳出規模はGDPの20.6%から18.9%と.1.7%低下した。これは金額にすると8.6兆円分、小さな政府になったことを意味する。なにしてるの!ここにお金があるのに、地方は増税して国は実質減税でキャッシュが浮いているやん!

 国は自ら増税せず地方に増税を求めていった背後には、国税である地租が実質大減税が行われて、農村の担税力がその分上昇していたことを意味する。第一次世界大戦で製造業を中心に三倍の経済成長を実現したが、それは農村部の相対的な経済力が3分の1へと縮小したことを意味した。都市の担税力が大きく伸びるなかで農村部の担税力は縮小した。その中で、都市部は実質減税で農村部は重税となり、地域格差が大きく開くことになる。そりゃぁ農村が疲弊するよ。。。

国土の不均衡発展と地方財政の窮乏*6

 どのくらい地方格差があったのか。松元崇『恐慌に立ち向かった男高橋是清』の243ページを参照したい。表の写真を張り付けます。余裕があるときにきれいな写真に代えます。すみません。

 

https://photos.app.goo.gl/iuDKpYZV3HVxqJjE9

f:id:kyoyamayuko:20210824144252j:plain

 全国一律の税率で徴収される直接国税に対しての地方税の割合は、東京、大阪に対して、岩手、青森、鳥取は4.1倍から5倍の開きがあります。東京府の直接国税額は岩手、青森。鳥取の50ー70倍の金額になっていた。つまり、東京、大阪を中心に直接国税増税していれば、地方の大増税は相当程度抑えられていた、と著者はいう。マジか。。。なんでしなかったんや。。。

 なお、この時期の沖縄は大戦後の恐慌で砂糖相場暴落し、経済も財政も悪化し、餓えてソテツの皮を食べるほどに大変な状況に陥った。毒のあるソテツの皮で死亡する者も多く、困窮した住民は本土や海外へ移住を余儀なくされ、身売りも公然と行われたという。

不在地主制度の成立

 「不在地主」という言葉はプロレタリア作家・小林多喜二の小説で知ったが、この時代に成立するんですね。不在地主は江戸時代には無かった。

 不在地主制度が成立したのは、地租が金納に対して小作料が物納だったことで発生する。小作人は米を物納するが、地主は米相場の影響を受けて米を換金して金納する。米価の高騰は地主に利益をもたらすが、小作には影響しなかった。米価高騰の受益を小作人は物納するため受けなかったのである。また、米価高騰すればするほど、それは地租の減税を意味した。地租は「定額」なので、米価が上がれば上がるほど減税を意味し、地主は富を得たのだ。豊かになった地主は土地を手放さざるを得ない農民から土地を買上げ小作人にして支配することになる。こうやって搾取システムが成立したんですね。江戸時代には無かった不在地主の成立だ。

 不在地主やその子弟は小作人の貧困をよそに飛躍的に向上した経済力を背景として都市での生活を楽しむようになった。夏目漱石の小説に出てくる「高等遊民」び登場だ。しかし、それは朝ドラ「おしん」のような窮乏した農村とセットだったのだ*7

 

 困窮した農村、農民は軍部の満州進出を支持母体となる。シティライフを堪能する都市と農村は乖離し、農村には絶望と怨嗟が募る。税制の不均衡は地域格差を生み出し、外へ希望を見出だすしかなくなるのだ。

 

 

今日はここまで!

*1:232

*2:246注5を引用

*3:234、松元崇さんの主張です

*4:ネットでググっても留萌町の破産の情報はないし、留萌市のHPの市のあゆみにも記載していません。負の歴史も残しておいた方が今後のためだと思うんですがね。。。更に検索してみたところこのような論文を発見した。地方債デフォルトの過程がよくわかりました。

https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://shiga-u.repo.nii.ac.jp/%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D7255%26file_id%3D19%26file_no%3D1%26nc_session%3D5o02v3s8g3tasppm218qndfp30%2520target%3D&ved=2ahUKEwiEs6abhsnyAhVEfXAKHUXLAi0QFnoECAMQAQ&usg=AOvVaw1fuX8P6Cs_YGarTf3x5Ns0

*5:239

*6:241タイトル引用

*7:244ー245