kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

なぜ日本は戦争を選択したのか(5)関東大震災ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 シリーズ(2)の 日露戦争では財政的な負け戦、(3)では日露戦争後は借金と金利負担で四苦八苦していたが第一次世界大戦のおかげで借金返済し、債務国から債権国のイケイケに、(4)では世界大戦後は国際環境が一変、帝政ロシアが消滅し互いに認め合っていた満州利権が御破算に!。アメリカが台頭してきて、中国利権に口出してきます。世界的な軍縮の流れで、日本も軍部を抑えて軍縮を実現します。経済的に豊かになり文化を楽しみ、厭戦ムードが漂います。

 

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 松元崇さんから学んでいきたいと思います。8章をまとめていきます。

 

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

 軍縮を推し進めていた加藤友三郎首相は大正12年8月24日に大腸がんで亡くなります。まだ62歳でした。あとせめて10年生きていてくれたら日本の行く末は変わっていたかもしれません。

 ワシントン軍縮会議に出席した加藤友三郎は下記のような言葉を残しています。この時代にアメリカと戦争できるわけがないと理解する人物がいたのです。肝に銘じておきたいものです*1

国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。……仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に……結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。

 笑顔の写真を見つけたので敬意を表して貼ります*2

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加藤友三郎

 加藤首相が亡くなった八日後に関東大震災が起こります。加藤内閣が着手した大軍縮を継承する山本権兵衛内閣が発足します。加藤友三郎と同じ海軍出身でした。

関東大震災ーーー国民総生産の三分の一の被害

 大正12(1923)年9月1日午前11時58分に発生した関東大震災は、死者・行方不明者14万人(東京の人口335万人のため4%)、国民総生産の3分の1を超える55億円の被害をもたらした。死者・行方不明者14万人という数字は、日露戦争の戦死者8.4万人、日清戦争の戦死者1.3万人、明治維新期の戦死者7千人を足し上げても及ばない数字でした。東京市の総面積43%、横浜市は28%を消失した。東京市から大阪へ遷都するのではないかという噂も流れたという。

巨額の経済的損失、経済・金融的対応

 世界大戦のバブル崩壊による不況で不良債権処理に苦しんでいた金融機関にとって関東大震災は担保の大半が一瞬にして消滅したことを意味した。これは新たに大量の不良債権が発生することになった*3

 山本内閣の井上順之助蔵相は9月7日にモラトリアム(支払猶予令)を公布、2月7日には手形について二ヵ年の猶予期間を置くとともに1億円の政府保証の下に日銀が再割引き*4に応ずるという緊急勅令を公布した。このときの日銀の手形の再割引は4億3千万円に上った。その後、その整理は用意に進捗せず昭和の金融恐慌の直接の原因となっていく。いわゆる震災手形問題の発生であった。巨額の震災手形の背景には、日銀の「積極果敢」な企業救済策があったのだ。

 関東大震災では木造の官庁舎は消失したが*5高橋是清が知恵を出し耐震を考えて造られた日銀本店は東海を免れた。これが今も残る。コンクリート作りの建物も倒壊しなかったことから、震災以後、コンクリート作りの建物が増えていった。現在の霞ヶ関官庁街は震災後に計画、建造された。霞ヶ関には国会議事堂が建設中だったので、その周辺に官公庁が集中することになった。

復興庁の設置

 大震災復興のために帝都復興院が設置された。総裁には、台湾経済の育成や東京市の運営に実績のあった後藤新平が任命された。国内総生産150億円の時代に復興計画として40億円の大構想を打ち出した。大戦バブル崩壊で緊縮財政路線の政府には承認できない規模の金額のため、高橋是清や伊藤巳代治らが規模縮小を主張し、最終的に15億円に抑えた。それでも巨額の金額だった。

円相場の下落、財政悪化

 大震災後は復興のために大量の物資を輸入し、外債に頼らざるをえない状況になった。復興物資の大量輸入は貿易収支を悪化させ、円相場は下落した。

 大震災後の財政は支出が膨らむ一方で歳入は租税減免で減少し、急速に悪化した。そのため公債に頼らざるえず、震災前の大正11年度では歳出総額に占める交際費は8.1%に過ぎなかったのが、13年度には16%まで膨らんだ。公債が膨らんだの、第一次世界大戦中に発行した短期の公債がちょうど償還期を迎え、高利でも借り換えなければいけなかった。そのため国債費が増加し、公債費も膨らんだという背景もある。

 なぜ財政収支も好転していた第一次世界大戦中に大量の公債を発行していたのだろうか。それは、輸出ブームで流入した外貨が国内でインフレをもたらさないように吸収しようとしたからだという*6

 政府は大量の公債発行による国内債権市場への負担を軽減するために外債(邦貨換算約5億1千万円の震災外債)の発行を行うことにした。しかし、この外債発行も、ちょうど日露戦争時に発行されていた外債(4.5%)の借り換えの時期と重なってしまった。ただでさえ産業の被災による損失が相当額に上って国としての信用が低下していた中で、発行されることとなった外債の発行条件は不利なものとなり「国辱公債」と避難されることになった(利回りは6-6.5%)。踏んだり蹴ったり。。。。

 山本内閣は緊縮財政を実行しようとするが、大正12年12月に摂政宮の裕仁皇太子が狙撃される虎ノ門事件が起こる。その責任をとって山本内閣は4ヶ月の短命で終わる。

 後継は清浦内閣だが、政党内閣でない内閣が続くことに反発した憲政会が第二次護憲運動を展開し、清浦内閣は総選挙で負けて憲政会の加藤高明内閣が成立する。以降は、正当内閣時代がくる。五・一五事件まで。。。 

 

 

今日はここまで。

 

 

前回から加藤友三郎のこと知り、興味を持ちました。

時間のあるときに自伝を読んでみたいなぁ。

写真は軍服のコワモテ顔が多いですが、笑顔はステキですよね。

 

ここから先は戦争を選択する道をたどっていきます。

加藤など非政党内閣のあとに政党政治の時代がくるのですが、テロに見舞われて選択が歪んでいきます。政治より軍が強くなっていくのです。軍をコントロールできなくなっていきます。

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1927年 昭和の金融恐慌

1928年 張作霖爆殺

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1931年 満州事変

1932年 五・一五事件犬養毅暗殺)

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

*1:引用はWikipedia加藤友三郎 - Wikipedia

*2:加藤友三郎内閣 - Wikiwandから引用しました。

*3:203

*4:再割引のいみについてはこちらを参照。貨幣の話

*5:木造の大蔵省も全焼しました。

*6:208-209