このシリーズはひとまず終えたつもりだったんです。
でも『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』で紹介されていた大原扁理の本を読んでみたんです。タイトルは知っていたんです。いまどき流行りの低年収でいかにやりくりするかという本かと思っていました。もうちろんそういう面もあるのですが、それを超えるものがあって感銘しました。彼は現代の仙人ですね。
『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』については下記のblogで書きました。
大原扁理の本のタイトルを見ると、節約本のように見えます。が、そのように読むと読み間違えてしまう面があるでしょう。この年収になったのは「結果」であって、それを「目標」にしたわけではないという点が重要です。
こちらの本では大原さんの人生の経緯について書かれています。
こちらの本も労働と金の話として読むと読み間違えます。この資本主義社会で生きていく上ではお金とは無縁ではいられません。とはいえ、お金にふり回れて生きていくことは苦しみを生みます。自分が気持ち良く暮らすために、自分にとって必要なものを見極め、最低限かかる経費を確保したらあとは自由に生きる。自由に生きてみると様々な縛りから解放されていくことに気づく。
彼は清貧や低年収を目指しているのではありません。自分サイズのハッピーを追求してみたら結果として今の生活になったのです。決して節約主義ではないのです。読んでいても、節約主義やミニマリズムの苦しさを感じませんでした。また、意識の高い清貧思想や環境思想ではありませんでした。目的を手段にしない、手段に捉われない柔軟な姿勢が好感をもてます。
下記のタイトルのblogで見田宗介の思想に触れました。
見田は近代について
「近代」という時代の特質は人間の生のあらゆる領域における<合理化>の貫徹ということ、未来におかれた「目的」のために生を手段化するということ、現在の生をそれ自体として楽しむことを禁圧することにあった。110
とまとめています。未来の「目的」のため現在は「手段」となる時間意識です。
また、人間の歴史とロジスティックス曲線を重ねて三つの局面について解説しています。近代は坂の上の雲を求めるように目的ある未来のため駆け上がる時間でした。しかし、近代化が一段落すると、坂を駆け登りたどり着いたのは高原でした*1。高原に着くと「目的」は無くなります。手段のはずの現在も浮いてしまいます。この二重の疎外がリアリティの喪失の根本原因であり、虚しさの原因でした。
見田宗介の思想は説得力がありますが、じゃあ、いったいどうやって生きていけばよいのだろうか。自らを充足して生きること、今を尽きなく生きること、というのは言葉としてわかるんだけど具体的にはどうやればいいのか。
この点について知りたくて、もうひとつの声シリーズでコミューンからpha、えらてん、山奥ニートまでまとめてみました。でも、共同生活は自分には合わない。phaも石井あらたも人間不信でだるそうだし、えらてんはテンションが高いし、グルを目指していそうなところが気になるし。
と思っていたところで、大原扁理でした。見田宗介のいうところの「今を生きる」をまさに2010年代に実践している。これ以上に心強いことはないでしょう。見田の本の6章のタイトルは「高原の見晴らしを切り開くこと」ですが、大原扁理はまさに切り開いている。
大原扁理の実践は、自分のハッピーを見極めて、自分に沿ってハッピーナイズして生活を実践することだ。できることから、少しずつ踏み出せるものだ。道は誰にも開かれている。大原扁理は特別な人ではない。普通の人だ。何か違うとするならば、常識や世間体に縛られず実践してみたことだろう。それをやるところがとっってもすごいんですけどね!
高原を見晴らすためのバイブル。それが大原扁理の『なるべく働きたくない人のためのお金の話』だ*2。
生きるのが苦しい人は読んでみるといいと思う。私たちは本当はもっと自由なんだ。自分を縛っているのは常識だ。資本主義社会が要請する常識だ。生きる意味も目標もなくていい。それでも毎日が充たされる。そんな生き方がある。十牛図の最後の図のような世界があなた次第で選べる。勇気を与えてくれる本だった。
もうひとつの声シリーズをまとめたものがこちら。