kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』の感想

ワクワクするタイトルです。

新しい社会ってどうやって生まれてくるのだろうか。

ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神*1をもじったタイトルなのがわかります。

消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神 (筑摩選書)

 

 

 著者は2010年代にひろがったミニマリズム(最小限主義)の現象と消費社会論を絡めて、ミニマリズムが資本主義を超克する現象の表れなのではないかとまとめていきます。

 こんまりからゆるりまい、phaや大原扁理から欧米の流れ、最後は禅の流行などミニマリズムの現象を紹介し、資本主義の主要価値観(精神、エートス)を相対化する現象であることを示す。これらの現象を「ミニマリズム」という概念でくくることには感心しました。

 でも一方で、事例や理論の網羅的、羅列的な紹介にとどまるので何が核心なのかは結局わかりません。特に欧米のミニマリストの事例を見る限り、プロ倫のキリスト教的禁欲、行動的禁欲と何が異なるのか分かりません。

 

プロテスタンティズムの 倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

 

 この本の大塚久雄の解説では、「禁欲」について下記のようにまとめています。長いけれど引用します。日本人がイメージする禁欲とキリスト教的禁欲の違いについて説明しています。

 

われわれ日本人は「禁欲」という語に出あうと、たいていはまず苦行僧などが絶食したり、自分の身体に苦痛を与えたりしながら、それによって何か非合理的な力を身につけようとする、そうしたことを思い出すでしょう。でなければ、自己の欲望をすべてを抑えて、積極的に何もしない、そうした非行動的な生活態度あるいは行動様式を想像するのではないでしょうか。

けれども、ウェーバーのこの論文にあらわれてくる「キリスト教的禁欲」は、絶対に、そういう意味あいのものではないのです。ウェーバーがこの「キリスト教的禁欲」を別の個所では「行動的禁欲」というふうに読んでいますが、このことがよく示しているように、われわれ日本人が想像しがちな非行動的な禁欲ではなく、たいへんな行動力を伴った生活態度あるいは行動様式なのです 400

あらゆる他のことがらへの欲望はすべて抑えてしまってーーだから禁欲ですーーそのエネルギーのすべてを目標達成のために注ぎ込む、こういう行動様式が行動的禁欲なのです。401

 

 欧米のミニマリズムの事例は、ミニマリズムという目標を達成するために行動的禁欲をしているように見えて、読んでいるとこっちが辛くなります。本人は資本主義の欲望から解放されてラクになったというのですが、私には新たな宗教に入っただけじゃないの?と思います。近代の魔力から抜き出せていないように見えます。

 近代から脱却する、資本主義から脱却するってコレじゃなくね?って気持ちが湧きます。著者がミニマリズムの事例をこれでもかってくらい羅列して紹介しているのですが活動のふりはばが広くて、何がコアなのかわかりません。私なりに考えるコアは、欧米にありがちな行動的禁欲ではなく、日本でありがちな清貧思想、節約主義ではない「なにか」なのではないのかなって思いました。

 もうひとつ、この本が手が届きそうで届かずもの足りないのは、資本主義とセットの近代の特徴のどこを中心に置いて分析するのか著者がはっきりした姿勢を示していないからです(羅列してよいものを採用はしているが)。

 下記のblogで書きましたが、見田宗介は近代の特徴をこのようにまとめています。

「近代」という時代の特質は人間の生のあらゆる領域における<合理化>の貫徹ということ、未来におかれた「目的」のために生を手段化するということ、現在の生をそれ自体として楽しむことを禁圧することにあった。110  

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 未来に目的を定め、現在を手段とする近代の時間意識そのものが、現在のリアリティから人間を疎外します。でも、坂の上を雲を目指す途上ならば、目標のある未来のために今を犠牲にして、手段として生きてもメリットがありました。目標を達成することを目指して努力することは苦しくても楽しいものであり、疎外されていたからなんだって感じでした。今が辛くてもよりよき未来があるじゃないか!

 でも、坂を駆け上がり、高原、平らな世界=将来に達成すべき目標が無い世界となったときに、未来の「目標」からも疎外される。今、われわれが苦しいのは現在からも未来からも二重に疎外されているからです。目標が無くなって手段としての「現在」も意味を失ってしまった。それが今を生きる人間の底からわきあがる虚しさの正体です。

 その虚しさの正体が何かを触れずに、ミニマリズムの事例を羅列されても、よく分からないのではないでしょうか。

 ミニマリズムのすべてとは言わないが、一部の実践は「今を生きる」試みです。未来に目標をもたずとも、今を充溢して楽しむ。それこそが脱資本主義の精神ではないでしょうか。禅の十牛図の世界です。でも、禅にこだわってそれを目標にして、今を手段化してしまえば、それは「行動的禁欲」に唾棄してしまいます。

 

 批判ばかり書いてしまいましたが、こういう本が出版されること自体、時代が変わったと感じます。これまでは坂道を駆け上がるための思想が基本だった。でも、これからは高原の、平らな、フラットな世界で今を充足する生き方の思想が求められてくるのだと思います。

 

 

ーーーーーー

 もうひとつの声シリーズは、この本と近いことを書こうとしたものです。この本を読んで学びがいろいろあったので自分のためにメモしておきます。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 まず、この本では徹底的に「個人」の行動を基本に書いていること。それに対して、私は集団、運動、コミュニティとして捉えて追っていました。「個人」を基準に現象を読み解くのはアリだなって思いました。

 もうひとつの声シリーズで取り上げた活動は、どのようになづけてよいのかわからなかった。わからないからこそ「もうひとつの声」という比喩になっているわけですが、この本のタイトルの「ミニマリズム」という用語を見て、なるほど!と思いました。

 一方で、ミニマリズムと呼ぶことで切り捨てられてしまうものもあるなと思いました。ゆるりまい的な部屋のものを最小限度にするという行為は、自然と最小限度になったというよりも、行動的禁欲の結果、ああなっているように見えます。こんまりの「ときめく」ものは残すというのならばわかるんだけど、ゆるりまいまでいくと禅の修行僧のように見えます。ゆるりまいですら苦しく感じるのに、欧米のミニマリズムはさら行動的禁欲って感じで、正直いってプロテスタントと変わらない感じがするんですよね。キリスト教の神が「掃除の神様」に替わっただけなのでは?という思いが残ります。求道的なのが苦手です。無為自然。今を愉しく生きるなら、求道的な姿勢より無為自然なんじゃないかなぁ。

 

*1:折原浩訳って出ていないんですかね?ロートルな私が所有しているのは大塚久雄訳です(笑)。

プロテスタンティズムの 倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

まったく関係ないのですが、このタイトルで検索かけたらプロテスタンティズムの倫理と資本主義の《精神》そうじ資本主義 日本企業の倫理とトイレ掃除の精神という本がありました。プロ倫のバーター本は多いのかなw?