kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

現代人はなぜ生きることの意味を失ってしまうのか

 

 前回のblog記事は苦しい内容でした。

kyoyamayuko.hatenablog.com

 荒野の砂つぶのような存在。割れた地面の底から吹き上げる風。虚しく寂しい。寒々しい。この虚しさはどこから吹き上げてくるのか。なぜこんなに虚しいのか。こんなにも虚しいのになぜ人は生まれ、死ぬのか。初めから生まれなければよかった。反出生主義が流行るのはわからないでもない*1。人は生まれて来ないほうがよいのか。なんで生きるってこんなに苦しいのだろう。「現代人はなぜこのように、生きることの意味を失ってしまうのだろうか」*2という問いを正面切って分析しているのが見田宗介です。

 

  見田宗介の思想はとても大きなものですが、この本を参考に、重要な部分をまとめていきたい*3。 

現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと (岩波新書)

ピーダハーンはその生きることの「意味」などを問うこともなく幸福であった。それは彼らの生の現在が他者との交歓と自然との交歓によって、直接に充溢していたからである。 108ページ 

 解説が必要だろう。ピーダハーンとはアマゾンの小さい部族ピダパンのことで、見田は「その実際の発音はピーダハーンという、森の中でこだまし合っているような、美しい響きであるらしい」[上記94ページ]と気に入っており、ピーダハーンと呼ぶ*4

 

現在の生に不幸な者だけがこの不幸を耐えることの根拠を求めて、意味に飢えた目を未来に向ける。未来にある「救済」あるいは「目的」のための手段として現在の生を考えるという、時間意識の転倒を獲得することによって、多くの目に見える成果を達成することができるということを、文明は知る。 109

 難しくなってきました。卑近な例になりますが、苦しい生活を変えるため大手企業に就職するために、小学生から受験勉強して高偏差値の学校を目指すということを考えてみよう。将来の目的=高偏差値大学の合格を目指して、現在の生を考える=合格の手段として受験勉強する、ということだ。<現在>の時間は手段に過ぎない。現在は未来のためにあるので、「今」を今として生きていないと言える。

 卑近な例は「個人」の話だが、この今が未来のために手段となる時間意識は、「人類」*5の話として捉えてほしい。

<未来のための現在> =<目的のための手段>というこの文明の時間意識の構造によって、第Ⅰ局面の人間の渇望であった、生存のための物質的な条件の確保という課題を追求し、見事に達成してきたのが第Ⅱ局面であった。 109

 

 第Ⅰ局面、第Ⅱ局面については序章10ページの下記の図5を参照してほしい。見田はロジスティック曲線と呼ぶS字型の曲線を人類史に当てはめて分類している。

 

 

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 徹底して合理主義的なビジネスマンとか受験生などの典型像に見られるように、未来にある目的のための現在の手段化という時間の回路は、他者との交歓とか自然との交歓から来る現在の生のリアリティを漂白するが、この空虚は未来の「成功」によって十分に補うことができるので、空虚感に悩まされることはない。109

 第Ⅱ局面、近代の過程とは坂の上の雲を目指すので空虚感に悩まされない。

世界の中で、アメリカや西・北ヨーロッパや日本のような高度産業社会において、生存のための物質的な基本条件の確保という、第Ⅱ局面の課題が達成されてしまうと、この自明の目的のための現在の生の手段化という回路が、初めて根拠のないものとなる。 109 

  しかし、近代化を達成すると目標がなくなる。未来のための目的が消失し、手段としての今が空虚になるのだ。

「近代」という時代の特質は人間の生のあらゆる領域における<合理化>の貫徹ということ、未来におかれた「目的」のために生を手段化するということ、現在の生をそれ自体として楽しむことを禁圧することにあった。110 

先へ先へと急ぐ人間に道ばたの咲き乱れている花の色が見えないように、子どもたちの歓声も笑い声も耳には入らないように、現在の生のそれ自体としてのリアリティは空疎化するのだけれども、その生のリアリティは、未来にある「目的」を考えることで、充たされている。 110 

未来へ未来へとリアリティの根拠を先送りしてきた人間は、初めてその生のリアリティの空疎に気づく。こんなにも広い生のリアリティの空疎の感覚は、人間の歴史の中で、かつて見なかったものである。

それは第Ⅱ局面の最終ステージという「現代」に、固有のものである。第一に<未来への疎外>が存在し、この上に<未来からの疎外>が重なる。この疎外の二重性として、現代における生のリアリティの解体は把握することができる。 110

 二重の疎外。二重のリアリティの喪失。これはつまり、

現在の生のリアリティの直接の充実を手放したままで、このリアリティを補充する未来の<目的>を失ってしまう。

 

 地割れした底から吹く虚しさの正体はこれである。文明史として、その歴史の中に生きる一人の人間の底から吹きあがる虚しさ。二重のリアリティの疎外。「透明人間」の慟哭は文明の底から吹きすさぶ風だ。

 

 二重の疎外を私たちはどのように克服すればよいのだろうか。これが現代の問いである。見田宗介は三章で「ダニエルの問いの円環ーー歴史の二つの曲がり角ーー」で語る。が、これはまたどこかで書いていこうと思う。もう一つの声シリーズは、この文脈で書いています。

*1:詳しくはこちら。但し、森岡正博氏は反出生主義者ではない。

www.businessinsider.jp

*2:108ページ:

現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと (岩波新書)

*3:時間に余裕があるときに見田宗介の壮大な思想についてこつこつまとめていきたいと考えている。一言ではまとめられない方なのです

*4:上記94ページでピダハンについて著者が語っているので引用しよう。「ダニエル・エヴェレット『ピダハン』は、1977年から2006年まで30年近くの間、宣教師/言語学者として、アマゾンの小さい部族ピダハンの人たちと一緒に生活をした記録である。アイヌを含む世界中のさまざまな部族や民族の呼び名が、彼ら自身の言語では『人間』という意味であることと同じに、ピダハンもまた彼ら自身の言葉では『人間』という意味であるという」。「この本が現代人をおどろかせるのは、長年の布教の試みの末に、宣教師自身の方がキリスト教から離脱してしまうということである」[94]。「このような<現在>の一つひとつを楽しんで笑い興じているので、『天国』への期待も『神』による救済の約束も少しも必要としないのである」[94-95]。

ピダハン――「言語本能」を超える文化と世界観

*5:正確には人類の中の一部の文化の時間意識