kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

学生運動と少女マンガーーー池田理代子と竹宮惠子

 竹宮惠子の『少年の名はジルベール』(以下、竹宮自伝)は、萩尾望都への嫉妬心を暴露したことで有名になりましたが、私としては学生運動が少女マンガ家に影響を与えていたことに驚きを禁じ得ませんでした。これまで、いわゆる花の24年組のコミックを読んできたし、その隙間を埋める大泉時代のエッセイも読んでいたのですが、学生運動との関わりを書いたものは無かったように記憶しています。でも、よく考えてみたら同時代なんですよね。

少年の名はジルベール

 

  まず、竹宮惠子について書く前に池田理代子について触れたい。中川右介の『萩尾望都竹宮惠子』(以下、中川本)を参照します。

 

萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命 (幻冬舎新書)

 

一九六六年に池田は東京教育大学文学部哲学科に入学したが、父親からは「最初の1年間しか学費は出さない」と言われていた。さらに入学すると学生運動にのめり込んだので家を出て、学費と生活費のため工場で働き、次にはウエイトレスのアルバイトをしていた。[同書250]

 池田理代子は「時代の子」である。学生運動にのめり込んだように社会問題への感心が強く、学園ものを描く一方で、原爆症、貧困問題を題材にしたマンガも描いていた。部落差別問題を扱ったものを描いたがボツになったというから、かなりの社会派である。しかし、そのまま社会派へ向かうのではなく、さまざまなパターンの恋愛ものも描いていた。社会問題への関心と恋愛ものが合体して、奇跡的な名作『ベルサイユのばら』が生まれる。[同書250]

 リアルタイムではなく有名作品として読んだ後発読者としては驚きだ。ベルサイユのばらは、歴史もの、革命ものではあっても恋愛に焦点を当てて読んでいたからだ。学生運動を経験しているからこそフランス革命に関心を持ち、重ねるのは当然だろう。Wikipedia情報だが、民青同盟に加盟して学生運動していたそうだ。社会が変わることを夢見ていたのではないだろうか。 池田理代子 - Wikipedia

 

 次に竹宮惠子である。『竹宮惠子カレイドスコープ』の年譜を見ると1968年に徳島大学教育学部(現:鳴戸教育大学)美術科に入学している。自伝によれば高校卒業間近でデビューを果たすが、働かないならば進学するように勧められて大学受験したのだ。ちなみに、高校は徳島県立城東高等学校で、県内有数(トップ校?)の進学校だ。

映画や文学も好きで童話(のちに「ガラス屋通りで」の元となった)も書いていた竹宮は、児童文学者を目指せと褒めてくれた担任教師にマンガ家志望を打ち明ける。まだまだマンガ家という職業に理解の進んでいない当時、先生は竹宮を激励。[同書158]

 竹宮惠子は親も担任もマンガ家になることには理解があり、しかも子供へ大学の進学を進める理解のある親であった。また、進学を勧められて合格できるくらいの才女であった。中川本では教科の絞り込みなど受験対策して合格したエピソードが掛かれているが、受験対策すれば国立大学に合格できる程度に頭がよかったのだ。本人はおもしろエピソードとして卑下して語るが、普通に考えて才女と言ってよいだろう。

 

竹宮惠子カレイドスコープ (とんぼの本)

  

 大学入学前後にデビューした竹宮惠子。竹宮自伝から

私が大学に入学した1968年という年は、大学が全国的に学園紛争で揺れている時期で、学生として考えなければならないことが山積みだった。

「安保反対!」「大学立法反対!」「ベトナム戦争反対!」

根っから好奇心旺盛な私は、この運動の意味を考えてみたくなったのだ。日本だけでなく世界的にも大学生が声を上げている時代の、この大学生らしい有り様を見ておきたい。

そこで1年間だけと自分で条件を付けて、いったんマンガから離れていた。[電書192]

  竹宮惠子は、世界的な学生運動の高まりの時に大学に入学した。このとき池田理代子は大学3年生で東京で学生運動をしていた。また、竹宮惠子の相棒となる増山法恵は東京都立駒場高校音楽科を卒業し音大浪人していたが、当時の駒場高校は東大進学率の高い有名校であり、高校の学生運動の中心であった。増山は卒業していたが、1969年10月18日に駒場高校日米安保条約粉砕を掲げて学生運動家に校舎が占拠された。竹宮惠子学生運動を地方国立大学で目の当たりし、池田理代子増山法恵は大学や高校で目の当たりしていた。東京の意識高い学生にとっては日常風景だったろう。熱い時代だった。

 

竹宮自伝で、竹宮、萩尾と出会った増山は語る。

「今、世間が安保でうるさいじゃない?世の中を変えて見せるとか、変えることができるはずとかってゲバ棒持って叫んでいるけど、どう思う?私はあんなことしたって、絶対に何もできるはずがないって思うんだよ」

 私(※引用注:竹宮惠子)は、地元徳島での大学時代のことを思い出していた。そういえば、彼らもそんな感じだったな、口で言っていることに、実際の暮らしや行動が伴っていない。

「私はね、今の学生運動なんか信用していない。高校生のときから学生も大人も信用していなかったよ。あの人たち、難しいこと言っているけど、自分の言葉の意味がまずわかっていないもの。そんなことで何かを変えるなんてできないし、逆にそんなことで変わってしまうような国じゃないよ、日本は」 

「それよりもさ、みんなそれぞれが、まず自分たちにできることをやるほうが先だよ。私たちなら、まず目の前のマンガ。少女マンガでしょう。少女マンガを変えようよ。そして、少女マンガで革命を起こそうよ。」

まったく同感だった。それこそが地に足が着いている。誰が、何のためにやるのかがはっきりしている。[電書641,650]

 増山のアジテーションに賛同する竹宮惠子。増山は更に竹宮と萩尾の二人に語るのだ。

「これまったくの偶然なんだけどさ、あなたたちが私の目の前に現れたことで、はっきりしたことがあるの。あなたたちさ、自分じゃまだ気が付いていないかもしれないけれど、少女マンガを根本から変える何かを持っているかもしれないよ。」

彼女の情熱と期待を私は素直に受け止めた。[電書650,658]

 大学で学生運動に触れた竹宮惠子はプロとして上京して増山法恵に出会い、増山の熱さに触れ、自分のやるべき道が見えてきた。私がやるべきこと、それは少女マンガで革命を起こすことだと。

 学生運動の影響は竹宮惠子の作品にも影響を与えた。『竹宮惠子のマンガ教室』で語る。

竹宮恵子のマンガ教室

 

 インタビュアー藤本由香里は「人間の中にある二律背反、人間の二面性を描くことーーーなるほど。面白いですね。それは、もともと竹宮先生の中にあったんですか?」[同書212]

私の中にあったんですね。それはたぶん、学生運動をやっていたところから来ているのかもしれない。

私にとって学生運動というのは、一つのこと対して二つの価値観があるっていう考えの一番最初の経験だったんですよ。一つのことが決まる時にも、別の方向からの考え方があって、こっちから見るとその答えはこういう意味になってて、同じ答えであるにもかかわらず、こっちの側から見るとこういう答えでしかない。それを目の当たりにしたのが学生運動だったんですよ。世界にはそうやって二つの方向ーーたぶん二つじゃなくてもっと、無数にあるんだろうけどーー大きく白と黒があるんだ、っていううふうに把握した最初だった。それが色濃く残っていて、「一見、正しく見えないものが正しいことがある」、それを言いたくてたまらない。私は知っているんだ、それを。でもそれは、今まで物語の中に出てきたことがないじゃないか、って。それがすごくあって私の話がすべて白黒の二つの魂が戦いせめぎあう話になっていくのは、そのせいだとどこかで思ってますね。[同書213]

  インタビュアーは質問を重ね、二律背反、光と影が溶け合って、「100%どちらかではない方が魅力的だっていう」[同書215]と竹宮から引き出している。この世界観は風と木の詩など多くの作品に影響しているだろう。

 学生運動カウンターカルチャー竹宮惠子に与えた影響は並々ならぬものがある。そして現在はマンガ人生を振り返り、少女マンガ革命の語り部として歴史を語るのだ。

 

 

 竹宮惠子だけの話ならばここで幕を閉じた方が美しい物語になる。しかし、前記したように、増山が竹宮、萩尾の二人に学生運動に熱く語ったとき竹宮は「萩尾さんも同じ気持ちだったのではないだろうか」[電書658]と思った。しかし、萩尾望都の『一度きりの大泉の話』ではまったく学生運動の話もでなければ、少女マンガ革命については否定している。竹宮は萩尾も同じ同志のように語るが、萩尾はまったく共有していない(少女マンガ革命については下記の記事を参照)。

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 これは単に二人がのちに決別したからというだけではない、と私は思う。というのも、大泉本に限らず萩尾望都学生運動について語った本や記事を読んだことがないからだ(すべてには目を通していませんが)。竹宮、増山のように学生運動に対して関心が高くない、というよりも乏しいに近い状態だ。

 竹宮は中川本で大泉サロンについて「あの頃っていうのは、コミューンみたいにするのが、かっこいいっていうのがあって、あんまり人と自分を分けなかったのよね」と語る[中川本240;『ささやななえ自選集2』の1997年の対談を引用している]。竹宮惠子が「コミューン」という言葉を使っていることに驚くが、コミューンとは学生運動の学生達がもとめた新しい共同体の形である。この用語を使っている時点で学生文化を知っている証拠だろう。

 しかし、同じ時代を過ごしているはずなのに、竹宮惠子萩尾望都はここまで学生運動に対する認識の違いがあるのなぜだろうか。それは、学生運動は大学及び大学へ進学する進学校の文化であり、大学が集中する東京の文化でもあったからだ。

 1960年代はそもそも大学進学率自体が低く、竹宮惠子が進学した1968年の進学率は全体で19.2%、男女別の進学率は確認できなかったが、当時の常識から考えて男子より低かったはずだ。その中で池田理代子竹宮惠子は大学へ進学している。あの時代ではエリート女性だろう。また、増山はピアニストを目指していたため音大浪人していたが都立駒場高校は有数の進学校である。

 一方で、萩尾望都は自伝等で「落ちこぼれ」と語っているし、大分県大牟田北高校は偏差値の高い学校ではない。つまり、1960年代の学生運動の文化に濃く触れる場所にはいなかった。増山が竹宮、萩尾に学生運動や革命について熱く語ったとき、竹宮惠子には深く響いたが、萩尾望都には記憶に残っていない話だった。ここにも二人の違いが大きく現れているだろう。

 

 

■引用文献

竹宮惠子

【電子版限定特典付】 少年の名はジルベール (小学館文庫)

竹宮惠子カレイドスコープ (とんぼの本)

竹宮恵子のマンガ教室

 

中川右介

萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命 (幻冬舎新書)