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花の24年組、大泉サロン、少女漫画革命の言葉の由来ーーー萩尾望都、竹宮恵子、増山法恵

 以前に花の24年組、大泉サロン、少女マンガ革命について情報収集してブログにまとめたが、その後、本を読み込み更に詳しく分かってきたので比較したものをまとめたい。

【情報収集】萩尾望都、竹宮恵子、増山法恵 - kyoyamayukoのブログ

 

 大泉サロンの由来

 竹宮惠子の『少年の名はジルベール』(以下、竹宮自伝)によれば、

誰かがいつからか呼び始めたものか、私たちのこの”大泉サロン”が四畳半のこたつ部屋であることに、さぞ驚いたことだろう[電書735]

「大泉サロン」というエレガントな呼び方は、今でも相当に違和感があり、たまに誰かに尋ねられると、『そんな華麗なものじゃないんですよ』といちいち断りをつけて話しているほどだ」[電書1281]。 

 萩尾望都の『一度きりの大泉の話』(以下、萩尾本)によれば、「大泉サロン、しりませんが。」[電書2934]が項のタイトルになっている。

「大泉サロン」という名前も「24年組」という名前も、私の知らないうちに流布していました」[電書2958]とあり、

大泉サロンについて聞かれても

「え?それ何?まさか、あの4畳半の長屋のこと?」[電書2958]

 

 中川右介の『萩尾望都竹宮惠子』(以下、中川本)では、

萩尾と竹宮の借りた部屋には、何人ものマンガ家があつまるようになり、そのひとり、坂田靖子命名で『大泉サロン』と呼ばれるようになる。[同書189]

二人(引用注:花郁悠紀子,坂田靖子)が何日か泊まっていった。「大泉サロン」の命名は坂田だった。「大泉ランランクラブ」も提案されたが、増山が却下し、「大泉サロン」となった。[同所220ページ]

 

 以上から、諸説あるが、竹宮、萩尾の当事者ではなく周囲が「大泉サロン」と呼ぶようになった、中川本によれば坂田靖子説が有力だろう。

 

花の24年組の由来

 竹宮自伝では特に説明はない。しかし、『竹宮惠子のマンガ教室』ではインタビュアー藤本由香里の質問に竹宮惠子は回答している。

でも”花の24年組”というのはもともと私たちが言い始めたことなんですよ。

[同所250]

それはもともと増山さんが言い始めたんだと思います。「だって考えたら24年組だよね、みんな」って。ほんというと私と増山さんは早生まれだから昭和25年生まれなんですけど、まあ、いいか24年で(笑)なんて。略。「言い方としても美しいしさあ」ということで自分たちで言い始めたんです。[同所250-251]

 萩尾本によれば、花の24年組について聞かれても

「え?それ何?」[電書2959]

という気持ちのようだ。同文に「(名前をつけたのは山田ミネコさんらしい?)」という伝聞を()で書き込んでいる。

 

 中川本では、

萩尾・竹宮は「花の24年組」の代表としても語られる。しかし、「24年組」は自分たちで名乗った名称ではないし、グループとして活動したわけでもない。評論家、ジャーナリストがそう呼んでいるだけで、誰がその一員なのかは論者によって異なる。ただ、どんな場合でも、萩尾・竹宮の二人だけはメンバーとして数えられる。[4]

 

 萩尾望都24年組という言葉への関心は低く、伝聞で山田ミネコ?と情報が曖昧だ。竹宮惠子は明確に記憶があり、しかも意図して使用している。増山法恵が言い出しっぺであることも記憶しているから、増山法恵が言い始め竹宮惠子も同意し、おそらく大泉の来訪者も同意して使うようになっていたのだろう。萩尾望都を除いて。

 大泉メンバーが使うようになった用語が、勃興した少女マンガ家たちを表す言葉としてメディアが使うようになっていったのではないだろうか。そして、言いだしっぺの増山法恵の名前は忘れられていったのだろう。

 

少女漫画革命の由来

 竹宮自伝によれば、大学時代の1968年に学生運動の高まりを目撃しており、漫画家生活を一年休止して学生運動の行方を見守った。そして、「私の革命は漫画でする」[電書200]と総括した。

 5章で「少女たちの革命」と章立てし、革命について語る。大泉の共同生活で増山法恵は熱く語る。引用する。

「私はね、今の学生運動なんか信用していない。略。あの人たち、難しいこと言っているけど、自分の言葉の意味がまずわかっていないもの。そんなことで何かを変えるなんてできないし、逆にそんなことで変わってしまうような国じゃないよ、日本は」[電書2820] 

「それよりもさ、みんなそれぞれが、まず自分たちにできることをやるほうが先だよ。私たちなら、まず目の前のマンガ。少女マンガでしょう。少女マンガを変えようよ。そして、少女マンガで革命を起こそうよ。」

まったく同感だった。それこそが地に足が着いている。誰が、何のためにやるのかがはっきりしている。[電書2820]

増山のアジテーションに賛同する竹宮惠子であった。

 竹宮自伝が出版された同年9月は企画展に合わせて『竹宮惠子カレイドスコープ』を発刊した。その本の目次には「カウンターの50年」「革命だよ、人生は」という章がある。学生運動の影響を大きく受けた竹宮、増山はカウンターカルチャーを意識し、革命を目指した。権威を批判し、従来の男の編集者が求める少女マンガではなく、少女が読みたい少女マンガ、カウンターとしての少年愛を表現することを目指すのだ。

 

 これに対して萩尾望都は冷静だ。萩尾本を読んでも「学生運動」の言葉はでてこない。二人とは異なり学生運動への意識は乏しい。だからこそ、革命への熱い思いをそもそも共有していない。萩尾本から引用。

竹宮先生、増山さん、佐藤史生さんが、熱心に漫画界のことや漫画の将来のことを話していました。「少女漫画革命」を起こすべきカテゴリーの漫画家は誰それと、佐藤史生さんは作家のランク付きのノートを持っていたようです。どうもその中に私も含まれていたらしいと後で聞いたのですが、私はちょっと引いていて、そんな話にも参加せず、その詳しい話を知りません。

「萩尾さん、あなたは私たちと一緒に『少女漫画革命』をやるのよ」とか、具体的に誘われたことはありませんでした。[電書3395]

でも、いつからか、大泉では竹宮先生と二人で「少女漫画革命」を目指していたというフレーズが一人歩きしてしまいました。 [電書3396]

私が竹宮先生と二人で「少女漫画革命」を目指していたはずがないんです。なぜなら、私は排除されたはずだから。だから、たぶん何かの誤解か思い込みだと思います。 [電書3396]

  萩尾にとっては「革命」は作家ランキングに表現される。萩尾にとってマンガは読んで楽しむものであって批判的に検証するものではない。よいところを学ぶことはあっても、批判的に検証して何がダメなのかと批評的に作品を読まない人なのだろう。

 

 少女マンガ革命を夢見たのは竹宮惠子増山法恵だった。風と木の詩は当時において革命的だったのかもしれない。しかし、「少年愛」という扉は一度開いてしまうと、急速に古びてしまうものでもあった。当時の読者には伝説的なマンガだったのかもしれないが、今ではあまり読み継がれていないのではないだろうか。

 もちろん「少年愛」の漫画として知名度は高くタイトルを知っている者は多いだろう。私も少女マンガ史を抑えておくために読んだものの、今はもう本棚にない。でも、確かにあのとき「革命」が起きたのだ。扉は開き、当たり前になり、過激化して、細分化された。扉を開けた者、それが革命者なのだ。たった一度きりの先駆者としての革命を竹宮惠子は確かに行ったのだ。

 萩尾望都は、大泉サロンも花の24年組も少女漫画革命も勝手に言われたもので本人としては否定的だ。萩尾望都を語るとき、これらのフレーズはあまりにも狭いフレームではないだろうか。これらの用語を遥かに超えたところに萩尾望都は立っている。でも、竹宮惠子にとっては自分を語る上では絶対に欠かせない用語であり、美しい青春の思い出なのだ。そう、彼女は過去に生きているのだ。人生の集大成として。

 

 

■引用文献

竹宮惠子 

竹宮恵子のマンガ教室

少年の名はジルベール: (小学館)

竹宮惠子カレイドスコープ (とんぼの本)

 

中川右介

萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命 (幻冬舎新書)

 

萩尾望都

一度きりの大泉の話