kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

もうひとつの声(1)ーーー全部降りたら大変だった。コミューンの実践

 「弱者男性」論は近代思想の「自立/自律した個人」モデルから排除された、疎外された「何か」だとするならば*1、自立した個人では「ない」生き方は社会を変えていくことができるのだろうか。 

  大きな山は変わらない姿であり続けるかもしれないが、少しずつ土砂が崩れはじめている。崩れ落ちた砂粒は集まり、別の形を生み出したり、崩れたり、また寄せては異なる形に変わっていく。

 たぶん今は過渡期なのだ。色んな形が生まれつつあるのだ。「自律した個人」モデルから降りた生き方にはいったいどのようなものがあるのだろうか。現在、生まれつつある様々な動きを押さえておきたい。

 まず、前史として資本主義社会を相対化するために実践した人々がいる。資本主義の社会システムから降りることで資本主義をぶっ壊す!、もとい資本主義社会のその先へ行こうとした思想がある。それが共産主義であり計画経済だ。が、この話をすると長くなるし、ソ連崩壊で失敗という結末を得たのではしょるとして、

 もう一つの社会実践を紹介したい。その名は「コミューン」、自由意思主義共同体。信念や信条を共有した個人が自由意思に基づき暮らす。

 実践として最も有名なのはパリ・コミューンだが、日本にもいろんなバージョンがある。武者小路実篤の「新しき村」や宗教団体のヤマギシ,社会福祉法人共働学舎など。驚いたことにすべて現役だ。古くなった「新しき村」の現在のルポはこちら。ヤマギシは問題をはらむのではしょりますが、共働学舎の実践はこちら。

「新しき村」の百年―〈愚者の園〉の真実―(新潮新書)

アラヤシキの住人たち

 

自給自足を目指すのが基本だ。自給自足こそ資本主義社会を超えていく論理なのだ。そう理解された時代があったのだ。

 コミューンがリアリティをもって受け入れられたのは学生運動の時代だろう。既存の社会制度ではない新しい共同体を表すものとして受け止められた。思想的先駆者は見田宗介真木悠介)だろう。

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)

 その思想をどこまで理解されたかは分からないが、学生達はともに生活して、自分も他人もいっしょくたな生活を謳歌し、新しい世界が生まれること夢見た。小さなコミューンはあちこち生まれた。名も無きコミューン、小さな種はたくさん蒔かれた。

 

 今は2021年。コミューンの名前は人日のの記憶から薄れ、忘れられた実践になっている。ヤマギシ以上の大規模コミューンは現れなかったし、小規模コミューンは細々と存在するが、縮小再生産でいずれは消える運命だ。

 親から子、孫へと再生産してコミュニティを維持するのは難しい。ヤマギシのように子供は共有財として共同で子育てする弊害を当事者は語る。子供にとって実親と暮らせない辛さ、愛着形成が不全な状態に陥りやすいなど、集団育児する問題点があらわになった。

 

カルト村で生まれました。 (文春e-book)

 

カルトの子―心を盗まれた家族 (論創ノンフィクション 009)

 

 学生運動から生まれた小さな多数のコミューンがその後どうなったのか。。。古市憲寿「2012年のコミューンたち」に書いてあったかなぁ。雑誌を捨ててしまったので確認できなくて残念です。記憶に残っていないので、おそらく細々とは続いてはいるのだろうが、大半は消えていく運命なのだろう。

atプラス 11

 

 コミューンは資本主義社会の論理とは異なる論理の共同体を実践する場であった。しかし、理念のために個が埋没することがあった。私もあなたも一つになることを夢見た。「自立した個」よりも個と個が融合しあう世界を夢見た。しかし、その夢の種はほとんど芽生えなかった。個と個が融合した共同体は一定の規模以上には大きくならない。資本主義社会を超えていくことはできない。 

 一つの理念の下に集まる共同体の暮らしは厳しい。資本主義に頼らないために自給自足の生活というのは、お金でなんても買えること(=資本主義社会)に馴らされたこの体にはとてもキツいものだ。

 昔のコミューン参加者はまだ親世代が農家という人も多かったから自給自足がイメージできたのかもしれない。でも今の時代は自給自足の農作業はキツすぎる。イメージすらわかない。資本主義システム、貨幣経済から全部降りるのは極めて難しい。ていうかムリゲーだろ。

 自由意思に基づいた共同体であるコミューンは、自由意思に基づいた「目的」のために共同生活を送ると、個人の意思よりも理想や目標の達成に向けて個人の意思を縮小していくように見える。コミューンの実践は、個人の意思より思想を「目的」にしたことで自由意思を疎外してしまった。自我の境界を超えた私もあなたも融合した共同体を夢見たが、実践の結果、それはいろいろ難しいことがわかってきた。

 個人<思想ではなく、個人>思想という流れでなければ続いていかないし、社会システムが変わるとするならば目標として変えていくのではなく、自由な意思による行為の集積の結果、自然と変わっていくしかないのではないだろうか。

 それぞれの個人が自由でありながら負荷が少ない生き方はないのだろうか。大きな理念や思想ではなく、自分が暮らしやすい生き方はないのだろうか。  

 最近の新しい動きを見ていると、自立の負荷を下げて自分らしく暮らす生き方が増えてきている。資本主義社会で当たり前とする生き方から半分降りてみる。全部は難しいから半分だけ降りてみる。そうすると息の詰まるような社会とは異なる景色が見えてくる。半分降りてみて、ようやく息を吸えるようになった男性たちの姿を追ってみたい。

続く。

 

(コミューンについて長くなりすぎて辿り着けなかった・・・・) 

 

 ■その他

 当然、バックラッシュもある。「弱者男性」論で主に語られるのは男性の既得権益復権運動であり、その背景にはネット寄せ場から紡ぎ出された暗黒啓蒙、ダーク思想があった。

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