kyoyamayukoのブログ

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ケアの倫理ー近代的自我を相対化する重要な概念

ケアの倫理について分かりやすくまとめてあり、勉強になったので概念を整理したい。

 

母性の抑圧と抵抗――ケアの倫理を通して考える戦略的母性主義

 

「第1章 母性研究の戦略とケア・フェミニズム」から引用してまとめる。

 

3 ケアー女性の経験と思考の可視化[23-27] 

母性研究は母性と近代的自我を対置。本署ではケアの倫理の議論に着目。

ケアの倫理は1980年代に登場、その後、フェミニズムの潮流の中でリベラリズム批判や新自由主義批判の社会理論として発展。本書では、ケアと近代的自我を対置するこのではなく、近代的自我を成り立たせている基盤としてケアを見出す。23

 発達心理学のキャロル・ギリガン『もう一つの声』

 もうひとつの声―男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ

 

 従来の発達心理学の評価する道徳性が、自己と他者を切り離すことによって発達する、普遍性や合理性であるとするならば、ギリガンの主張するケアの倫理は、自己と他者の境界線が曖昧であり、また自己と他者は明確に分けることができないというところから出発している(岡野,2015a)。25

 

 ケアの倫理は、正義の倫理のような道徳性こそが、人間的であり、徳のあるものであるという伝統を築いてきた、近代的な知のあり方を相対化する。 25

 更に、ケアの倫理の視点からは、実はリベラルのな平等は、抽象的な個人から成り立つ、均一な人間集団から成り立つ社会を前提にしている。

 その抽象的な個人とは、実質的には、成人の健康な男性がモデルとなっている。このような属性をもつ人は、一般的には、働き、社会で十全なメンバーシップをもち、経済的に自立した、また自分で自分のことが決定できる自律した人として認識されやすい。だが、実際の社会はそのような自立/自律した人間では成り立っていない。妻や母親、小さな子供、女性、高齢者、障がいをもつ人、病気を

もつ人、働けないひ人など、多様な人から構成されている。しかし、これらの人々は、成人で健康な社会のメンバーシップを得ている男性をモデルにした基準には必ずしも当てはまらない。そのため、一律に基準に当てはめられるのでは、必ず取り残されこぼれ落ちるてしまう人がいる。26-27

 ケアの倫理は、個人主義的な従来の「正義」から取りこぼされてしまう人を見捨てずに応答するもの、そして人と人とのつながりを維持する「もうひとつ」の倫理として「発見」された。27

 

5 公私二元論の根深い男性中心主義[29-33]

 リベラリズムの伝統では、人は近代的自我という他者と切り離された「自立した個人」を暗黙に前提した知の体系においては、人間が生きるにあたって必要不可欠なケアによるつながりは周縁的なものとされ、時には捨象されている。

 これは近代社会が、生産労働と呼ばれる有償労働を社会における一義的な活動であるみなしているためである。29

 「正義」の領域とされる公的領域とケアの領域とされる私的領域は、(略)並列に置かれる対等な関係ではなく、中心と周縁の関係、つまるところ男性中心的な、ジェンダー化された権力関係のもとで把握される。

 このような男性中心的な権力関係は、公私二元論という、公と私/公と家族はまったく異なる原理をもつと見なす考えによって覆いつくされてきた。

 スーザン・オーキンは、公的生活と私的生活を分化させるリベラリズムの思想では、(略)私的領域の不正義[正義・ジェンダー・家族]を不問にしてきたことを指摘する。31

 公私二元論は、家族や私的領域を「自然か化」することで、ケアの価値を問うこと自体を不問にする。32

 

6 家族からの女性の疎外[33-36]

 公私二元論とは、この二次的依存の存在を認めないことによって成り立っている。

 「二次的依存」=ケアする人がケア役割ゆえに陥る依存状態。34

  家族、積みすぎた方舟―ポスト平等主義のフェミニズム法理論

  愛の労働あるいは依存とケアの正義論

 キテイは、ケアする人もまた生きていくために必要なケアを受けとるという「ドゥーリア原理」を着想。

 ケアする人がケアするがゆえに社会や家族から疎外されることのない社会を構築していくためには、ケアを誰もが関わりをもつ政治的な問題として認め、負担やコストを公正に配分していくことが重要になってくる。 35

 

注記6[37-38]

 岡野は、プラトンの『国家』におけるソクラテスをはじめとした、リベラリズムの伝統的な政治思想について、国家・社会の形成の端緒として想定されている「最小国歌」には、第一に、生産労働に従事する男性しか登場せず子どもや老人、障害者や彼彼女をケアする女性が想定されていないことを指摘する。そして、第二に「社会のつながりが基本的にはモノを媒介としたつながりとして捉えられ、一人一人が果たすべき役割は異なるものの、なお各人が特定の仕事を遂行することが社会における協働だと考えられていることである(個人主義と互恵的な平等主義)」(岡野2015a:135) 38

 

以上引用でした。以下は今の自分の感想です。

 近代的自我はケア無くして自立/自律はありえない。自分が「自立」していると錯覚しているのであれば、それはケアされてきたことを忘却しているからだ。むしろ「自立」感覚は長い人生の中の一定期間の時期なものであり、産まれるとき、幼いとき、死ぬときはケアされるわけだし、「自立」しているときだって病気になればケアの恩恵を受けるのだ。こちらの感覚の方が、近代的自我よりもずっと普通な感覚に近いだろう。

 問題なのは、この近代的自我をベースに近代思想が発展し、社会思想となり、社会を支える基礎概念になっていることだろう。震源プラトンの『国家』まで遡ることができる。人類二千年の歴史があるのだ。

 この近代的な自我、抽象的な自我を超えた自我論が求められる。ケアの倫理は、今後の思想に向けた重要な概念、思想だと思った。

 忘れないようにメモしておくが、ケアの思想と見田宗介の自我論は接続可能だろう。時間のあるときに検討してみたい。