kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

『<普遍性>をつくる哲学  「幸福」と「自由」をいかに守るか』の読書ノート(1)ーーー実在論と構築主義の相克

 岩内章太郎さんの新刊を読んで、自分のなかでもやもやしていてよくわからなかった概念がクリアになりました。スッキリして視野が広がった感じがします。

 読書ノート的にまとめていきたいと思います。

<普遍性>をつくる哲学: 「幸福」と「自由」をいかに守るか (NHKブックス 1269)

第1章 新しい実在論の登場ーーー普遍性は実在する 17ー75

 ポストモダン思想[ローティ、フーコーラカン]に対抗する思想として「新しい実在論」[マルクス・ガブリエル、メイヤスー、グレアム・ハーマン、チャールズ・テイラー、ヒューバート・ドレイファス]が登場した。

 著者は実在論の課題をこのようにまとめている。

複数ある実在論の主張が「実在をめぐる論争」を引き起こし、しかもその内部には、深刻な信念対立を調停するための原理が見当たらないことである。

現在実在論構築主義への対抗思想以上の意味を持ちうるのか。言い換えれば、相対主義と独断主義の対立を根本的に克服した哲学と言えるのか。 19ページ

新しい実在論における「実在」の対立について、

真に存在するのは、意味の場か(マルクス・ガブリエル)、オブジェクトか(ハーマン)、数学化された物自体か(メイヤスー)、自然法則か(テイラー、ドレファス)。この問題が解けないことには構造的な理由がある、と言うべきなのである。 

74ページ:()は私が追加した。

と「実在をめぐる論争」を指摘する。では、なぜ現在実在論は行き詰まってしまったのか。

観念論を警戒するあまり、近代認識論の成果を反故にしてしまい、「間主観的普遍性」(人間の確信としての普遍性)ではなく、「実在的普遍性」(人間を超越する普遍性)にその活路を見出だしたからである。

すなわち、<普遍性>をつくる可能性ではなく、普遍性を単に実在するものとみなす可能性にかけてしまったのだ。現代実在論は、一つの例外もなく、観念論と実在論という枠組みそのものを乗り越える原理を持たない。

74ページ:下線部は私が引いた。

 

 このまとめ、すごくないですか?

あんなにややこしい現代哲学をこんなにスッキリ理解できると思っていませんでした。

今までこんなに明快に説明してくれた本には出会ったことはありません(哲学は苦手なので読んだ本が少ないだけかも知れませんが)。

 岩井章太郎さんの凄さは解説の上手さだけではありません。実在論をめぐる論争を回避するためにはどうすればいいのか提案しているのです。

 

第一に、近代認識論が苦闘した主客一致の認識問題の意味を理解し、

第二に、その問題を原理的な仕方で解明して、主観と客観という図式そのものをひっくり返す必要がある。

すなわち、はたして人間の認識は実在と一致するのか、と問うのを止めて、どう考えれば全員の合意をうまく創出していけるのか、ということを焦点とするのだ。

75ページ

注意点として以下のことも付記している。

普遍性という概念のなかには、抑圧と排除のリスクが潜んでいることである。

普遍主義の危険性を認識せずして、二十一世紀の<普遍性>の哲学はありえない。

74ページ

 

このリスクを知るために次章は構築主義にいくわけです。

 

第二章 構築主義の帰結ーーー普遍性を批判する 77ー134

 この本を読んで私なりに理解したことは、構築主義がつきつけた問題は二つある。一つは、近代哲学の普遍性が「全体主義」に転化する可能性があること、もう一つは、徹底して相対主義を突き詰めていくと「絶対他者」が出現し、普遍性を阻みつづけるということだ。

理性への懐疑ーーー全体主義への転化*1 

 このあたりはわりと有名なのでさらっと書くが、ホルクハイマーとアドルノの『啓蒙の弁証法』は近代的理性に対して疑義を表明した本だ。第二次世界大戦の経験から、なぜ理性は全体主義の暴力に屈したのか、鋭く問われたのであった。著者は以下のようにまとめている。

暴力に対抗すべき理性が、暴力に奉仕する道具に変貌する。「理性の普遍性」は「支配の全体性」となる。それを絶えざる否定によって相対化することが、戦後の欧米哲学の主要な課題の一つになったのである。

84ページ

明快な説明ですね。そして、フーコーらを踏まえて

新しい普遍主義を打ち立てるのであれば、特定の集団がそこから排除される可能性は、いつも考慮される必要がある。そうしなければーーーどれだけそこに論理的な整合性があってもーーー<普遍性>の哲学は全体主義に転化する。

112ー113ページ

と述べる。しかし、

 

その一方で、普遍性を遠ざけてしまう構築主義では、それ自身の主張を基礎づけることはできない。構築主義も、その倫理的動機も、歴史的に構築されてきたものの一部であり、特定の言語ー認知体系のうちでのみ成立する、と言うほかなくなるからである。だから、古い普遍性の独断的性格を批判することはできても、新しい<普遍性>を作ることはできない。それはいわば再建なしの解体なのである。

113ページ

これが構築主義の大きな課題である。

絶対他者の否定神学ーーーサバルタンは語ることができるのか*2

 構築主義の本質について以下のようにまとめている。

構築主義の論理の先には、他性の理念化をその本質的な契機とする、一切の構築から逃れ出る絶対他者の「否定神学」が待ち受けている。

絶対他者とは、いかなる規定性によっても規定されない、「無限性」という本質を持つ他者である。すなわち、他者が最も虐げられた他者という一つの理念に結びつくと、いかなるカテゴリーからも超越する絶対他者の可能性を措定せざるをえなくなるのだ。

114ページ

 

 著者はさらにわかりやすく説明しているので超訳すると、構築主義はカテゴリーで分析していくので、カテゴリーを細分化し続けていくと、最終的には「何物とも規定がたい他性」(115)という観念にいきつく。その他者とは「その他者が社会から見放されて、苦しんでいることだけは分かる、しかし、略、その状況を語ることはできない」(115)他者だ。しかも、その細分化は無限に続くので把握することはできない。

 「無限をその本質とする他性の理念が、最も虐げられた物という観念に結びつくとき、そこに表れてくるのが『サバルタン』である」(121)と説明している。このサバルタンについて著者は、

スピヴァクが議論するサバルタンは、<普遍性>の哲学に対する究極のアンチテーゼである

この思想は、構築主義による近代哲学批判をさらに批判することで。、「他なるもの」という概念をもう一歩先に推し進める。すると、普遍的合意の可能性を目標に定める「言語ゲーム」(言葉の営み)は、大きな困難を抱えることになる。

121ページ:下線部は私がひきました。

 スピヴァクが措定するサバルタンとは、「サバルタンの代わりに語ることも、サバルタン自身に語らせることも、ヨーロッパの知識人のエゴイズムに過ぎない」(125)し、「虐げられた者の主体性を構築するのは、もう一つの暴力でしかない」(125)のだ。つまり、サバルタンとは、

サバルタンとはそのような言語ゲームの外側にいるるのである。125

絶対他者の否定神学ーーー普遍性の断念は、力による決定しかなくなるーーー*3

 著者は、サバルタン概念の意義について、「独断的普遍性によって抑圧されている人々の側に立とうとする哲学のモチーフは、その最も深いところでつかまえられる必要がある」(126)と述べる。その深いところというのはなんなのだろうか。

相対主義相対主義に跳ね返ってくるからである。「すべて相対的なものである」という主張も、相対的なものにすぎない。

善悪に関する一切の根拠が単に相対化されてしまうなら、絶対他者が抑圧されていようがいまいが、関係なくなるのである。

126ページ

そして、

絶対他者という考え方は一つの「否定神学」に帰着する。 略

双方(レヴィナススピヴァク:括弧内は私が補足)の思想には、決して到達することのできない極限の他性という概念が含まれており、これがラディカルになると、誰が究極の最弱者なのかをめぐる否定神学に陥るのだ。「絶対他者の否定神学」である。

126ページ

否定神学の論理を下記のようにまとめる。

否定神学において、神は「語りえないもの」であり、肯定と否定の二項対立を超越した否定によってのみ近づきうる存在として描かれる。126ページ

神は感覚と知性で捉えることのできる存在と非存在を超えた存在である。それは日常生活において獲得される知では決して把握されえない。一般的な存在範疇をすべて忘れ去ってみなければ顕現しない「何か」なのである。したがって、神の超越は無知によってのみ近づくことができる。

ここで、古今東西の真理の話を挟む。

真理というものは、人間世界における存在、認識、言語から絶対的に隔絶している、という考えは、古代インドのウパニシャッド哲学やイスラームスーフィズムにも見られる。

真理はたいていの場合隠されており、(過酷な修業や苦行に耐え抜いた)一部の者だけが到達可能なものとして描かれる。

真理はある種のラディカリズムを必要とし、それを徹底できないものは「覚りの言語ゲーム」(橋爪 二00九 百八十頁)から除外されるのである。

127ー128

以上から、以下のように説明するのだ。以下の文章に私は唸りました。

思考のベクトルが<普遍性>の哲学と逆向きになっていることが分かるだろう。絶対他者の否定神学における他者は神や真理に限りなく接近しており、このとき普遍性は、真理から見放された人間の通俗的一般性を意味するようになる。

すると、誰が最も苦しんでいるのかを顧慮しない一切の立場は、倫理の頽落形態とみなされる。しかも最弱者救済の言語ゲームに参与する者は<私>だけが真理を知っており。正義は最弱者とともに<私>の側にあると考えているので、ほとんどの場合、普遍性を創出すること自体を厭う(自分と最弱者以外のすべての人間を信用しない)結果、善悪の根拠は失われ、哲学は(権)力に負けてしまう。

 今はやりのポリコレ(ポリティカルコレクトネス)や社会運動や「リベラル」と言われる人たちの根本的な批判に聞こえますね。

 結局、相対主義は善悪の基準も相対化するため、そうなると結局のところ力関係だけで決まってしまう。構築主義が生み出した権力批判は、サバルタンという絶対他者の概念を生み出しても、善悪の根拠を相対化することで、結局のところ、力関係しか残らなくなる。これでは、権力批判のための構築主義なのに、結局は権力関係にのみこまれていく。自分たちの「最弱者」を巡って万人の万人による闘争状態に陥るんですよね。 

 

普遍性を断念することは、実質的には、力による決定を受け入れることに等しい。

129ページ:下線部は私がひいた。

 

名言です。この言葉を胸に刻みました。

 

では、どうすればよいのか、

多様ではあるが、相対的ではない世界 

130:下線部は私が引いた。

はいかに可能なのか。

 

「多様ではあるが、相対的ではない世界」という言葉にハッとしました。この問いの立て方は可能なのか!?

可能なのか?

可能なのか!

 

 

いかにして可能なのか、岩内章太郎はさらに解きほぐしていきます。

 

が、今日はここまで!

 

 

*1:この見出しのサブタイトルは私が書いたものです。

*2:サブタイトルは私が書きました。

*3:タイトル、サブタイトルは本の内容を踏まえて私がつけました。

日本版「SNS 少女たちの10日間」ーーチェコでも日本でも同じことをする男たちーー

 

未成年のふりしてオンラインチャットしたらどうなるか、というのがこちらのチェコドキュメンタリー映画でした。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

この映画を真似て日本でも実験した団体がある。大津市の団体だ。Skypeで実験したところ「開始数秒から返信が相次ぎ、9時間で160人に達した」!

 

www.yomiuri.co.jp

 

ネットの記事はリンク切れしやすいのでスクショを貼ります。

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読売新聞オンライン2021/09/18 15:00

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読売新聞オンライン2021/09/18 15:00

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読売新聞オンライン2021/09/18 15:00

 

記事には中2設定の女の子に対して

 

 「男性器の画像を送りつけてくる人がいた

 

とあります。

 

私はここで謝罪しなければいけないだろう。

あの映画を見て、男性器を送り付ける男達が多過ぎてチェコの男やばない!?と書いてしまったが、日本人だって送り付けて来るよ。。。世界共通の男性の行動だったみたいです。

 

おっと、いけない。

「男」と一般化して書いてはいけないですね。男性の「一部」には、に訂正します。

映画や記事には、善意で心配してくれる男性もいることは記しておきましょう。

 

SNSの恐さを映画でもこの記事でも実感できます。

 

が、これだけネットが普及しているのにSNSに「接しない」ことは難しいわけです。

少女たちは孤立感とさみしさだけでなく好奇心でSNSのオンラインチャットに参加するかもしれません。

記事でもSNS利用法の注意を子供の側に喚起します。でも、これは子供限らず大人にも通用する話です。

むしろ、性加害行為を行おうとする側に注意喚起すべきではないでしょうか。AIで男性器の写真や動画をアップしようとしたら、「違法行為で処罰される可能性があります」と警告のポップを出すべきではないでしょうか。また、子供が裸体の写真や動画をアップするときも同じ仕様しできないものなのでしょうか。

「写真や動画をアップすると複製され拡散される可能性がありますが、それでもアップしますか」

というポップを出せないものなのでしょうか。

 

もう一つの違和感は、映画も記事もSkypeを利用している点です。

海外のことはよくわかりませんが、日本では少なくとも未成年がSkypeするのはかなり少数派ですよね?

小中高生がSkypeをやるって、私個人はあまり聞いたことがありません。

japan.cnet.com

(こちらは2017年の記事。ラインは規制していないと書いていますが、その後規制が入っています。青少年保護を目的とした18歳未満ユーザーのLINE ID検索利用停止 : LINE公式ブログ

 

 

ただし、映画のように日本でも、Skypeではお小遣稼ぎで接触する道具として活用されているのでしょうか。

もし買春・売春の温床になっているのならば、それは法的に規制すべきでしょう。売春ではなく出会い系のグレーゾーンの状態だとしても、社会の方から規制をかけるべきでしょう。SkypeMicrosoft社のアプリなので、Microsoftが対応すべき案件だと思います。

 

子供のモラルに訴えるだけでなく、社会的に規制していくことが重要なのではないでしょうか。

 

少なくとも出会い系の温床になったLineやTwitterは事業者が規制強化して、以前よりはマシになっていますよね?

 

大津市の団体は日本で出会い系の温床になっているLineやTwitter、オンラインゲームではなく「Skype」で実験したのはなぜなのか。映画に合わせたからなのか、LineやTwitterでは実験するのが難しかったのか。その点は聞いてみたいところでありますが、とにかく、Skypeで実験したら日本でも男性器画像を送り付けてくるんだなぁと感心しました。

一部の男性は世界のどこでも同じことをする!

【本人の弁追加】フィールズ・グッド・マンと小山田圭吾ーーーネットミームはモンスターを創発するーーー

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出典:

ヘイト目的で使われ続けた「カエルのペペ」、作者が奪還を断念して公式で葬式を行う - GIGAZINE

 

 ここでは時事ネタは避けたいと思いつつ、小山田圭吾さんについていろいろ考えさせられることがありました。最近、kobeniさんの小山田圭吾の「イジメ発言」を検証したblogを読んだのですが、原典まで辿らずネット(特に2ちゃん)で拡散した情報が折り重なりあって、もともとの雑誌インタビューの文章を超えて「小山田圭吾」像が作られていき、社会に拡散し、国家的行事オリンピックの開催式に関わったことで壮大に炎上し、祭となっていったことが克明に記されています。

 kobeniさんの記事を読んで既視感がありました。まるで映画「フィールズ・グッド・マン」みたいな話じゃないか。

kyoyamayuko.hatenablog.com

 映画フィールズ・グッド・マンでは、ゆる~い学生の日常を描いたカエルのぺぺが、作者の意図を超えて、非モテのアイコンとなり、紆余曲折を経てオルトライトのアイコンとなり、大統領選でトランプのアイコンに使われる。差別アイコンとなっていく。作者は著作権を楯にぺぺの名誉を復権しようと努力するが、ぺぺのイメージが拡散されすぎていて、結局、作者はぺぺのイメージをコントロールできないまま映画は終わる。

 小山田圭吾も、ぺぺのように「いじめっこのアイコン」として表徴され、拡散し、収集が着かない状態になっている。

 

 ネットミームについて語る前に、炎上した小山田圭吾のイジメ問題とはいったい何だったのか。kobeniさんが経緯をまとめ、検証しているのでまずこちらを先にお読みいただけると助かります。渾身の記事です。

www.kobeniblog.com

 

こちらも渾身の記事です。インタビュー記事がいかにネットミーム化していったのか検証しています。この記事を書くのに相当の労力がかかったはずです。noteならば応援のお金を払いたいくらいの記事です。社会学の論文として投稿できるレベルの内容ではないでしょうか。

www.kobeniblog.com

 

 上記の記事によれば、rockin'on及びQuickJapan(1994年、1995年)の記事は2003年に2ちゃんに書き込まれるようになる。主にファンが集うコーネリアスのスレッドタイトル(以下スレタイ)で荒らし(ネット荒らしは今や死語?)が起こりますが、荒らしはスルーという鉄則のもとファン達はスルーしていたようです。しかし、そこで事件が起こります。

 2004年6月の「埼玉蕨女子中学生いじめ自殺事件」で2ちゃんで一気に炎上し、小山田圭吾のいじめっこキャラが定着し、小山田圭吾スレタイはイジメ記事が定着して張られるようになります。ファンは2ちゃんから去っていき、小山田圭吾の「全裸緊縛」「食糞バックドロップ」がネタのように語られていきます。ネタの一方で、社会的に注目を浴びるイジメ問題が起こると、2ちゃんでは小山田圭吾が思い出されたかのように語られていきます。

 問題は、この2ちゃんで語られている内容が、実はネットで語られていくなかで構成されていった「ネットミーム」だったことです。雑誌のインタビュー記事では語られていないことが、本人のイジメの話として作り上げられていきます。「インタビュー記事の内容」と「ネット上の小山田圭吾の語ったとされる内容」は別物なのです。この違いについては最初に添付したkobeniさんの記事を参照するとよくわかります。比較して検証しています。

 つまり、小山田圭吾が語った2社のインタビュー記事を組み合わせ、かつ自分の周りにあったイジメの出来事が、あたかも小山田圭吾本人が行ったイジメとしてネットでは語れ、その情報が拡散していったのです。

 

 9月23日号の『週刊文春』で小山田圭吾は中原一歩の取材を受けてイジメ問題について語りました(20210916)。

bunshun.jp

 私はネットではなく雑誌を購入して記事を拝見したのですが、2ちゃんで取り上げられている全裸緊縛オナニー、食糞、バックドロップのイジメは自分ではないと否定しています。しかし、過去のイジメ行為は否定していません。最新の記事なので営業妨害になってはいけないので詳細は書きませんが、自分の行ったイジメ行為についても具体的に語っています。

 当時、rockin'onの取材に応じたのは、アイドルのようなイメージを変えたかったこと、「アンダーグランドの方に、キャラクターを変えたいと思ったのです」(134:『週間文春』2021.09.23)とあるので、あえて露悪的なイメージで語ったわけです。次のQuickJapanでは取材を断ったが、何度も依頼されたので応じている(詳細は文春の記事を読んでください)。

 

 小山田圭吾は、フリッパーズギターを解散してコーネリアスを立ち上げたばかりでイメージチェンジをしたかった。そのため、露悪的にイジメについて語ってしまった。自分のイジメというよりも、周りのイジメについて語ったところ、rockin'onの記事の構成ではあたかも自分でやったように受け取られかねない書きぶりでインタビュー記事が掲載された。QuickJapanは断っても何度も頼まれて応じた。その結果、小山田圭吾のイジメについて二つのインタビュー記事が文字として残った。

 1995年、Windows95が販売されてインターネット社会が到来しました。それでもこの記事がネットに書き込まれるようになるまで6年かかっています。1999年に2ちゃんという匿名掲示板サービスがはじまり、その2年後の2001年にようやく小山田圭吾のいじめ記事が登場します。まだこの当時は、雑誌記事の記憶が人々に残っていたのでしょう。

 

1994年1月にROJ、1995年7月にQJが発行されている。2chが開設されたのは1999年5月。最初に「小山田圭吾のいじめ記事」に関するトピックが2chに登場するのは、2001年ごろだ。

小山田圭吾氏いじめ記事に関する検証 その2. ネットミーム「2ちゃんねるのコピペ」が大炎上に至るまでの変遷 - kobeniの日記

 

 雑誌が主流の当時、ファンサイトに雑誌の記事の全文をネットに載せた人がいた(雑誌を読めなかったファンのために善意で)。そのサイトにアップされていた文章が切り取られ2ちゃんに登場する。2004年には社会的に話題となったイジメ自殺問題と重ねて小山田圭吾のイジメ問題が炎上する。最初の炎上は、2ちゃん登場から3年後、rockin'onのインタビュー記事から10年後でした。

 あまりテレビに出ることのない小山田圭吾だが、小山田圭吾の名前が社会に出ることがあれば2ちゃんで炎上し、イジメ問題が起こると小山田圭吾の名前があがる。ネタと現実がループする。小山田圭吾は知る人ぞ知るミュージシャンなので、細々とだが話題になると思い出され継承されていった。

 でも、まだ現実には侵食していない。もちろん染み出してはいた。Eテレの『デザインあ』という番組では、小山田圭吾のイジメ問題が質問されている(文春の記事ではその点についても触れています)。

 2021年7月14日に、世界的な大イベント・オリンピックの開会式に小山田圭吾が参加していると発表されると、その翌日には一気に炎上した。コロナ禍のオリンピックで国民の不満が高まるなか、不満の火力は小山田圭吾に一斉に向かった。。。ついに現実に噴出し、過去の発言を検証されることなく、ネットの文章=ネットミームをもとにみなが批判する。ネットもマスコミも官房長官も。

 イメージチェンジのために露悪的に語ったインタビュー記事から27年経ち、ついに現実に大噴出したのだ。破壊的なまでのイメチェンとなってしまった。社会生活が送れなくなるほどに。。。

 

 フィールズ・グッド・マンの映画は、嗤いながら他人事のように見ていた。アメリカのバカはすげーなって。でも、その言葉はブーメランで返ってきて自分に突き刺さる。私もそのバカの一人なんだって小山田圭吾いじめっこ問題で痛感しました。

 

 フィールズ・グッド・マンのぺぺのように小山田圭吾は実物の小山田圭吾から離れて、匿名の誰か達から「いじめっこの小山田圭吾」が作り上げられていった。書いた人だけの問題はない。書いた人以上に、多数の読んだ人がいた。ネタなのか本当なのか。雑誌記事をリソースとしてあげられると本当っぽい感じがする。その雑誌は昔の雑誌なので手にとって読むことはできない。ネットに書いてあるしほんとだろう、だって雑誌の記事だよ?2ちゃんを読んだ読者達も「いじめっこ小山田圭吾」を膨らませていった。

 本人も記事に事実ではないことは多々あってもイジメたこともあるから、訂正せず反論せず放置した。ぺぺの作者のように「どうしていいかもわからなかったし」と。匿名掲示板でいったいどのように対処できたのか。迷って放置している間に、イメージはどんどん大きくなっていった。本人のこれまでのキャリアをすべて壊すまでに。大統領選、オリンピックという現実の大イベントとネットミームがリンクするとき、とんでもない大炎上が起きる。本人の反論ではどうにもならないレベルの問題になった。本人を超えた小山田圭吾像が独り歩きしてしまった。コントロール不能なモンスターの誕生である。

 

 イジメ問題は90年代から00年代まで自殺問題と結び付いて社会問題化された。いじめられっこにとって、いじめっこ小山田圭吾は憎らしい敵だったろう。小山田圭吾のイジメ問題をネットで叩くことは正義の行為だったはずだ。もしくは、渋谷系のプリンスとして降臨する文化的ヒエラルキー上位者に対する激しい嫉妬をぶつけられたのかもしれない。ガチ勢からネタとして嗤う勢まで、入り混じった感情で「いじめっこ小山田圭吾ミームをネットで作り上げていったのかもしれない。その一人に、2ちゃんで読んで嗤って流していた私がいた。このひとサイテーだなって嗤う匿名の私。オリンピックの炎上で「小山田圭吾のあの話って有名だよね?」としたり顔をしていなかったか。

 

 コントロール不能に陥ったモンスター「小山田圭吾」は供養しなければならない。等身大の小山田圭吾に戻すほかあるまい。小山田圭吾が良い人とか、悪い人とか、音楽の好悪で判断するものではない。モンスターを等身大に戻すことで、自分自身の歪みを是正するしかない。

 kobeniさんの検証記事や週刊文春のインタビュー記事を読んで、モンスターではないただの音楽家小山田圭吾を静かに受け止めたいと思う。願わくは、公共放送NHKで「小山田圭吾」ネットミーム化問題を検証して、日本人が我に返ることを願うばかりだ。

 

 

 

 

 このblogを書き終えたあとにCornelious InfoのTwitter上で「いじめに関するインタビュー記事についてのお詫びと経緯説明」がアップされました。

全文の画像ははこちらです。

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いじめに関するインタビュー記事についてのお詫びと経緯説明

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いじめに関するインタビュー記事についてのお詫びと経緯説明

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いじめに関するインタビュー記事についてのお詫びと経緯説明



 小山田圭吾小山田圭吾の手によってネットミーム小山田圭吾を等身大に戻すしかない。小山田自身の手で小山田自身を取り戻すしかない。それがイラストのぺぺではなく生身の人間にできることだろう。小山田圭吾が手放して膨らんだ「小山田圭吾」を回収できるのだろうか。

 kobeniさんがあそこまで労力を割いて渾身の記事を書いたのは、小山田圭吾の音楽を愛し、人間性を信じているからだろう。小山田圭吾が若い頃に手放してしまった「小山田圭吾」像が等身大の姿に戻ることを信じている人がいる限り、きっと、彼の言葉は届くはずだ。

 2ちゃんの情報をネタとして「知ってる、知ってる、あの話でしょ」という程度にしか小山田圭吾を見ていなかった匿名の私達の一部にもきっと届くはずだ。少なくとも私は、記号としての「小山田圭吾」ではなく等身大の小山田圭吾の言葉を読んで、考えている。

 

 

 

 

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90年代が青春時代だったのでフリッパーズギター渋谷系は知ってはいたが、そこまでのファンではなかった。小山田圭吾の活躍はEテレの「デザインあ」で久しぶりに名前を見て驚いたくらいで。オリンピックの開会式も、サブカル系というかアングラ系なのに国家行事に関わるんだ、ふーんって感じでした。冷めた目で見ていたら、あれよあれよと炎上していって驚いた。2ちゃんで見たのはずいぶん昔の話だし、小山田圭吾のイメージにいじめっこ感がなくて、本気で受け止めていなかったんですよね。2ちゃんのイジメのネタを。ネタって思っていた。だって2ちゃんですよ?マジで受けとらないやろ。

私のなかで小山田圭吾って岡崎京子のリバーズエッジのマンガの山田一郎って感じなんですよね。小山田圭吾にソックリなんですよ。岡崎京子もファンだったみたいだし。このマンガは雑誌CUTIEに掲載されていて、リアルタイムで読んでいました。このマンガの高校の雰囲気も殺伐としているし、当たり前のようにイジメがあります。今のマンガと比べるとイジメの表現も過激かもしれません。山田一郎はいじめられっこなんですが。

小山田圭吾って醒めているイメージじじゃないですか。今風で言うとクールというか。だから、2ちゃんのいじめネタを本気に受け止める人なんているとは思っていなかったのが私です。でも、これもぜーんぶ私のなかの小山田圭吾です。本人には会ったこともないのでわかるはずもありません。

 

リバーズ・エッジ

【まとめ】なぜ日本は戦争を選択したのかーーー松元崇の財政・金融史

 

なぜ日本は戦争を選択したのか。

 

安倍70年談話ではこのようにまとめられている。

世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

出典

(全文)首相が「戦後70年談話」で語ったこと | 外交・国際政治 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース

 

 安倍70談話は批判されることも多いが、「世界恐慌ブロック経済化して景気悪化した日本は、中国進出(侵略)によって活路を見出だそうとしたが、それは世界的に孤立化する選択だった」という歴史観は教科書的なストーリーでもあるだろう。安倍談話で軽く触れられている「国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」については、軍国主義化して止められなかったということを示唆してる。

 が、実際には、政党政治は財政負担を軽くするするために緊縮財政を求めた。緊縮財政とは、ありていに言えば軍縮であった。軍の財政負担が重いため、緊縮財政は軍縮とセットだった。満州事変後ですら「軍縮」派が多数派だったのだ。それなのになぜ軍部支持が増えて、軍事予算の暴走化をとめられなかったのか。

 松元崇は、明治維新期から財政と軍事費の関係に焦点をあて、財政規律を守り軍事費を削減した歴史の繰り返しを丁寧に描く。西南戦争日清戦争日露戦争は、膨らんだ軍部=軍事費と莫大な戦費の借金を圧縮する苦闘の歴史であった。「軍縮」は第一次世界大戦前から日本の課題であったのだ。国際的なワシントン、ロンドン軍縮会議の前から、日本は国力に見合った軍事費のため常に軍縮を余儀なくされていた。

 しかし、ニ・ニ六事件で高橋是清が惨殺されると「財政規律」が崩壊する。国防のために軍事費予算は膨らみつづけ、財政を悪化させ、経済を疲弊させた。世界がブロック経済に突入した時代、実は日本はそこまで景気が悪くなかったのだ。少なくとも都市部は。地方は極めて困窮したが、1936年には「東京ラプソディー」が戦前最大にヒットし、豊かさを享受していた。。。戦争「しない」という選択肢は決して夢想ではなく、現実味のある選択だったろう。でも、それは都市部の論理であって地方は違った。超格差社会が戦争を選択させた面は否めない。

 満州国の開発を日本単独ではなく他国(米国、英国)にも開放すれば戦争という選択肢は遠ざかっただろう。しかし、対ソ戦を意識した軍部は単独開発にこだわった。その結果、たいして資源のない満州国を一から開発することになり、日本から大量の資本を投入し、本国は疲弊化していった。また、日本が支配する華北地域の「円元パー」政策によって貴重な外貨が失われていった。日中戦争がはじまり、若い労働力は軍隊に奪われた。以上によって資本、外貨、労働力を失い、米国との戦争を選択するしかなくなるのである。そう、日本は「自ら」の政策の失敗で持たざる国になったのである。決してブロック経済のせいではない。

 

 日本はいかに財政規律を確立し、財政規律を維持するために格闘したのか。松元崇の本から学びながら、シリーズ18回にまとめました。この歴史を知らずに戦争を語ることはできない。国力に見合った「財政規律」を忘れるとき、軍部は拡大し暴走する。

 

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

持たざる国への道 - あの戦争と大日本帝国の破綻 (中公文庫)

 

 

 

 

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『妊娠・出産をめぐるスピチュアリティ』の感想

 子宮系、体内記憶、自然なお産。。。妊娠、出産した女性にとって、雑誌やネットで見かける言葉たち。「自然なお産」なんてあまりにナチュラルな言葉過ぎて、スピチュリアリティと関係があるなんて自覚も無く、それらの言葉に触れている。

 これらの言葉はどこから来ていたのか気になっていました。なので、この新書の出版は嬉しかった。出産を経験した女性にとって、これらの言葉をまったく触れずに出産、育児している人たちは極めて稀だろう。特に、「自然なお産」は女性の憧れる出産のように語られることも多いのだから。

 

妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ (集英社新書)

 

 各論点については本を読んでもらうとして、全体の流れをおさえると、伝統的共同体にとって出産と宗教は結び付いていた、月経や出産はケガレと見なされ、男女の差異を強調し、文化や社会的制度レベルで区分されていた。ようするに社会が管理していたわけだ。

 しかし、近代化によって妊娠、出産は個人の問題とされるようになる。出産も助産婦の介助から医療化がすすむ。伝統社会では管理されていたものが、近代化によって個人化が進んだ。

 個人化が進んだことと、女性の社会進出の結果、妊娠・出産は個人の女性の「選択」の問題となっていった。「選択」という選択肢があるということは、積極的に産まない選択肢が増えたからだ。この選択肢が増えたのは、女性の抑圧解放のため運動したフェミニズムが大きな成果をあげた。「女性は母になるのが当たり前」という常識を「母親である前に一人の人間だ」と主張したのだ。女は「母親」という常識から距離をおき、「女である前に人間だ」という抽象的な人間像を新たに社会に訴えて、認められたのだ。このあたりのフェミニズムの話は、この本を超えて私が解釈するフェミニズムです。

 フェミニズムは一人の人間としての新しい女性の生き方を提示した。子供を生まず働く女性の生き方を提示し、受け入れられた。フェミニズムの功績は大きいだろう。選択肢が増えると言うことは、自由が増えたということなのだ。

 でも。ここからがこの本の主張するところだが、働きつづけようが続けなかろうが出産して母親になる女性はいるわけで。妊娠・出産が「選択」できるということは、それだけ女性に判断の負荷がかかります。産むのが当たり前の世界では産めない/産まない女性が苦しむ世界でした。その世界を解放したのがフェミニズムだった。でも、産むことが選択になったときに、「私」が選択しなければなりません。フェミニズムは産むことの選択に寄り添ってくれるわけではない。フェミニズムは「産むこと」を暖かく支えてくれる理論ではありません(むしろ冷たく突き放すところがあります)。

 産むことを積極的に肯定し、支えてくれるもの。それがスピチュアリティだった。子宮系、体内記憶、自然なお産は、女性の妊娠・出産を肯定します。

 スピチュアリティがここまで普及したのは、能力がある女性だけでなく普通の女性が働きつづける社会が到来したからだ。そして、ネットの普及、SNSの普及が大きかった。

 

 ネット以前の社会では、新宗教の話が印象的だった。例えば、オウム真理教について、「子どもを遠ざけることで、母親としてではない個人としての自分自身を獲得することを重視する事例」(33)として説明していて、なるほどなあと思いましたね。自分自身のための人生を生きようとすると子供は邪魔です。その受け皿にオウム真理教はなっていた。。。

 まぁ、これは極端な例ですが、子育てに悩む女性は、宗教団体に入り支援されているんですよね。今でもそうですが創価学会とかね。カルトになるとエホバなど。

 今の時代、宗教団体に入信するのはハードルが高く手間なので入る人の方が少ないだろう。スピチュアリティは個人主義化した迷える女性を、優しく包み込むのだ。。。

 

 著者はフェミニズム運動が、妊娠・出産を肯定的に評価しなかったと批判する。また、先に読んだ元橋利恵の『母性の抑圧と抵抗』もそうですね。母親になること、マザーリングという視点をいれて、フェミニズム思想を変えていこうとしています。

 私はこの流れに賛成ですね。フェミニズムの「女の前に一人の人間」という運動は一定の効果があったけれど、役割を終えつつあるんだと思う。もちろん男女平等を求めて活動しつづけてもいいと思うが、女性の妊娠、出産、育児を肯定する思想が生まれてもよいと思います。でなければ普通の女性はスピチュアリティにすくいとられ続けるだろう。

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『中国共産党、その百年』の感想

  既に話題の本ですが、石川禎浩さんの新著は大変面白かったです。読み物としても、小難しい論文調ではなく、語り口調が上手く引き込まれていきます。最後まで読ませてくれる本でした。

 

中国共産党、その百年 (筑摩選書)

 

 これまでblogにも書いてきましたが、私の場合、中帰連日中戦争に関心をもち、ようやく中国自体を理解しようと思って本をいろいろ探したり、読んだりしていたのですが、この本はドンピシャでした。初心者が読んでも面白いし、深いところまで理解できたような気がします。

 私なりに興味をもったところを簡単にまとめます。

 

中国共産党の「共産主義」ってなに?

 共産主義というとカール・マルクス共産主義をイメージしてしまいますが、中国共産党にとっての共産主義とはコミンテルン、ボリシシェヴィズムという指摘は目から鱗だった*1。その理由は、超要約すると、中国の共産主義運動が世界的に見て後発であり、中国で共産主義運動がはじまるとき世界の共産主義運動はコミンテルンが主流だったからという歴史的な事情によるものだった。

 現在の中国であっても共産党に入党するときは、自らを党という組織の歯車としてすべてを捧げる服従の誓いがある。マルクスの時代にはこのような「絶対服従」の規定は希薄だったが、この「鉄の規律」「絶対服従」の組織原理はレーニンボリシェヴィキ時代、国産共産主義運動ではコミンテルン時代になって以後のことだという*2中国共産党のこの組織原理は今でもなお継承されているが、コミンテルン由来であることを知っておく必要がある。マルキシズムでは理解できないのだ。

 また、実際に中国共産党は組織を結成した当初からソ連の指導を受けていた。

 

なぜ中国共産党は建国できたのかーーー日本軍という巨大な敵が中国を一つにしかたら。思わぬアシストで生き延びる。

 中国共産党と国民党は互いに敵同士で戦いあっていました。日本軍は本丸の敵ではありません。広い中国では、近代国家を成立させるためには「一つの中国」というナショナリズムが必要です。日本は、日中戦争により、華北地域だけでなく中国全土の各地を攻撃しました。「日本軍はそれまでのどの列強よりも広い範囲に、大量に、長期間にわたって、それも単一国家による侵略軍として現れた」(138)ことで、中国ナショナリズムを醸成したそうだ*3

 中国共産党は、国民党の共産党征伐で灰燼に帰す寸前だった。それを日本軍が国民党と第二次上海事変で戦い、国民党が危機になったことで、共産党は生き延びることができた。蒋介石国民党からしかけた第二次上海事変は、日本軍に対しても中国共産党に対しても判断の誤った戦闘でした。共産党壊滅を優先すれば、歴史は変わっていたかもしれないのです。

 中国共産党にとって日本軍とは国民党軍を弱らせ、しかも中国全土で戦闘を行い、敵として「共通の体験」を与えたことで、逆に「中国人」というナショナリズムを生み出した存在でした。

 日本敗戦後は国民党と中国共産党が内戦に突入します。内戦の潮目が変わったのは1947年後半だったそうだ*4。国民党は施行予定の憲政(国民党の一党独裁の放棄と民主的選挙の実施)が自党批判につながるのをおそれて憲政を停止し、民主派団体を弾圧し、支持を失った*5

 そのころ、共産党は「満州国」時代のラジオ放送の普及により、公共メディアが本土より進んでいた!東北で、宣伝工作をおこない世論をみかたにつけていた*6。日本が投資して作った通信インフラを共産党は活用したわけです。1948年にはついに国共の軍事バランスは大きく共産党に傾き、1949年10月に建国された。

 尚、ソ連は日本敗戦後、国民党を支持しながら、影で共産党を支援していました。ソ連、ひどい(笑)。言い換えると現実主義的であり、日本の満州国の権益をもらう変わりに国民党支持していたんですが、毛沢東ソ連が嫌いでした。ソ連が嫌いになる気持ちはよくわかります。まぁ、でも、ソ連がいたから日本軍の装備などを譲り受けることができたんだけどね。

 

※第二次上海事変についてはこちらをどうぞ。蒋介石はドイツとアメリカの支援があったので強気でした。

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毛沢東はなぜ偉大なのか?ーーー生き残ったからです

 毛沢東ってなにがすごいのか?。超要約すると、過酷な戦闘のなかで死なずに生き残ったから、だということになる。この本だけでなく他の本を読んでいても感じるのは、よく中国共産党って生き残れたよな、という感想になります(笑)。まじですごい。日本軍だけでなく国民党軍もえげつなく虐殺してきますからね。生き残った幹部ほど、毛沢東自体が信仰になったていったところもあるのかもしれない、と思いました。建国後も何度も権力闘争がありましたが、あの戦いで生き残った「毛沢東」を敵に回すと、自分が生き残れない。。。そんな合理的な知性を超えた何かを、内戦に身を投じた幹部ほど思ってしまったのかもしれませんね。そのため、建国後、毛沢東の政策が失敗しても、指摘できない(指摘すると失脚させられるし)。

 既に毛沢東亡きあとですが、天安門事件で、長老たちが民主化運動を弾圧したのは、ここまで犠牲にして作り上げた共産党国家を壊そうとする若者が許せなかったからというのも、過酷な戦いを読んだ後にはやけに納得しましたね。過酷な内戦を戦い抜いた長老ほど許せなかった。まぁ、もちろん今の時代から見たら許させる行為ではありませんが。。。内戦をサバイバルしたからこそ、毛沢東に逆らえないし、国家に反逆する者も許せないという感情はわからないでもありません。

 

結成当時、建国時の共産党と現在の共産党

 党員の学歴や職業は大きく変わった。

 結党の党員はほぼ知識人で占められていた。しかし、農村での活動と戦争を経た1949年の党員は6割が農民であり、高卒。大卒は1%にも届かず、非識字率(文字が読めない)兵士が7割いた。*7!!。中央レベルの指導者は全般的に高学歴だったが、中レベル以下の幹部は党への忠誠心は厚いが行政能力や文化的素養は低かったそうだ。そのため、党員と高学歴の多い都市部との間で摩擦が起こったという。大変です。

 しかし、2020年時点では、全党員に占める大卒以上の割合は半分を超えました*8。約70年かけて教育が普及し、学歴をここまでひきあげたわけです。 今や中国は超格差社会ですからね。。。

 

 

といったところを興味深く読みました。

 

中華人民共和国、興味深い国です。つい、日本が侵略しなければ、果たして成立したのだろうかと考えてしまいます。日本抜きには語れない近代国家であることは間違いないでしょう。

 

 

 

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【完】なぜ日本は戦争を選択したのか(18)「持たざる」国への道②華北分離工作、円元パー政策で外貨流出、日米通商条約の破棄ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 シリーズ(17)では、満州国の開発が本国の犠牲の上に成り立っていたことをまとめた。満州国華北支配によって日本は国内の資本、労働力、そして正貨=外貨が流出して「持たざる」国へ自ら陥っていくのである。

 今回は、円元パー政策によっていかに中国へ正貨が流出していったのかをまとめる。

 

 

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 松元崇さんの本の第4章を中心にまとめていきます。

持たざる国への道 - あの戦争と大日本帝国の破綻 (中公文庫)

 

当時の日米関係

※前回と重複しますが流れをわかりやすくするために残しました。

 盧構橋事件当時の政府(近衛内閣)は、対英米強調路線だった。対英米貿易依存度は輸入で50ー60%、輸出で30ー50%だったこと、特にアメリカのシェアは輸出で38.8%、輸入で31.4%あり、経済合理性に基づいた当然の判断であった*1

 南京陥落前日に、揚子江の米国砲艦パネー号を日本軍が誤爆、撃沈したが、政府と軍部は責任を認めて米国に謝罪した。米国もそれを認めて大きく取り沙汰されていない。そのときの斎藤博駐米大使はすぐに全米中継の放送で謝罪し、米国もそれを多とし、昭和14年に斎藤が米国で亡くなると、その遺骸を最新鋭の巡洋艦アストリアで日本に護送している*2。このような日米関係だったのだ。

 近衛内閣の蔵相は池田成彬であり、三井財閥の大番頭から日銀総裁を経て大蔵大臣に就任した人物である。筋金入りの合理的な資本主義者であった。

 池田は①日中戦の早期収拾、②対ソ戦に備えた戦時体制の整備、③対英米路線の維持継続を打ち出した。対英米強調路線の具体的な内容としては、華北における軍部主導の円ブロック形成政策の放棄、スターリング・ブロック向けの輸出拡大による外貨獲得に加えて米国資本の導入による満州地域の日米共同経営といったものであった。 当時、軍部の反対はあったが、大陸経営は日本の資本だけでは無理で英米の資本導入が必要と考えられていた。米国も、華北・華中を含めた中国全土という観点では中国経済の将来性を高く評価していたことから、池田蔵相の路線を基本的には受け入れるという姿勢だったという*3

 

華北分離工作ーーー華北開発は内閣の管轄下に

 満州を共同開発しようという動きに対して、 軍部は対ソ戦を意識していており、単独開発にこだわっていた。軍部は、満州投資に消極的な既存財閥を「企業資本家というものは非常に卑怯だ」として敵視し、日産コンツェルンなどの新興財閥と結んで日本単独の「満蒙ブロック経済化」を進めていった。

 華北分離工作とは、1935年ころから始まった満州に隣接する華北地方を中国から分離させる政策のことで*4、軍部が対ソ戦に備えて華北に重化学工業の資源を求めるとともに、関東軍機械化部隊のモンゴル国境への派遣の安全を確保しようとして推し進めたものである*5

 

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満州国華北5州 『図説・日中戦争

※出典:華北分離工作

 

 昭和10年6月にはチャハル省から中国軍を追い払い(土肥原。秦徳純競艇)、同年11月には冀東防共自治政府を擁立した。そして、開始されたのが、低率関税(査検料)の下での密貿易(冀東特殊貿易*6)であった。それは、日本製品が国民政府の定めた関税を免れて冀東地域から華北市場に流入することであり、それによって被害を被る華中の商工業者(特に蒋介石の存続基盤である浙江財閥)の反発を招いただけでなく、関税収入を国民政府への借款の担保としていた英国の強い反発を招くものであった*7

 当時の中国大陸の経済情勢は大きく変動していた。昭和9(1934)年には60年来の米の旱魃に加えて米国の銀買上げ政策による国際的な銀価格の高騰から銀本位制をとっていた中国経済は苦境に陥っていった。

 もともと金銀複本位制をとっていたアメリカは1933年に金本位制を離脱、銀準備のために高価格で銀を買上げる「銀買上げ法」を制定した。これにより銀が高騰、銀本位制の中国の為替レートを直撃した。実は中国は、金本位制の世界の中で、銀本位制だったことから銀の下落(通過安)で比較的好調な経済を享受していた。そこに襲ったのが突然の銀高であり、中国の本位通貨である銀が大量に流出し、中国経済は深刻なデフレに陥っていた*8

 しかし、昭和10年末になると英国のリース・ロス英国元大蔵大臣の支援を受けた「幣制改革」が成功して経済は安定化に向かい、軍事的にも蒋介石軍は広東、広西を掌握して残りは華北の日本軍と共産党の問題だけになった。

 そのような情勢の中、昭和11(1936)年6月に来日したリース・ロスは、関東軍に密貿易の取締りと華北の関税制度の維持を要求した。林銑十郎内閣(昭和12年2月発足)の佐藤尚外務大臣は、対外協調外交の観点から、関東軍華北分離工作を否定する路線を打ち出し、3月には財界の有力者で構成された使節団(日華貿易協会会長児玉謙次郎団長)を訪中させた。しかし、林内閣が崩壊すると第一次近衛内閣には引き継がれず、華北分離工作は華北開発という政府直轄の形で強行されるようになったのである*9

 近衛内閣による華北開発は、関東軍と満鉄によった満州の場合とは異なって軍を排除し、内閣の下で設置された興亜院(1938年)と北支那開発株式会社、中支那新興株式会社で行われた。開発は大失敗だったと評価されている*10 

「円元パー」政策の失敗ーーー華北の経済戦の敗戦

 教科書で触れられていないので知らなかったが、華北における軍主導の円ブロック化政策(経済戦)による人為的な金流出によって華北経済が悪化した*11。それは経済戦の敗戦といってよいものであった。

  当時の中国は、リース・ロスによる弊制改革が成功し、法弊(中央、中国、交通の三大銀行によって発行された通貨*12)が統一通貨として流通するようになった。

 それに対して、日本軍は、華北で無理に円ブロック経済圏を形成しようとした。昭和13年3月に北支那方面軍特務部主導で、華北に新たな発行銀行として中国聨合準備銀行を設立し、その発行する聨合銀行と法弊、日本円との間の固定レートとする「円元パー」政策を採用した*13。ところが、円と法弊の交換レートが、実勢を無視する円高だったため、日本から大量の正貨(外貨)の流出を招くことになったのである*14

 当初日本は、華北において日本円や聨合銀行券、軍票を増発する一方で、そういった通貨の増発がインフレーションを招かないように貨幣発行量に見合った物資を日本から輸出していた。その結果、日本国内から円ブロック圏への貿易収支は計算上、大幅な黒字を計上していたが、いくら黒字になってもそれによって日本に還流してくるのは増発された日本円や聨合銀行券ばかりで「正貨」ではなかった。しかも、その日本円や聨合銀行券の多くは「鞘取り」で大幅に割安な相場で法弊から交換されたものであった

 その鞘取り(価格差による利益)はどのぐらいだったのか。100円を元手に5回の鞘取りによって2048円48銭を取得できたとされており、その差額だけの「正貨(外貨)」が日本から華北に流出した。それは、結果として鞘取りされた分だけ華北地域で外貨準備を管理していた蒋介石政権に外貨(正貨)を節約させ、正貨決済が必要な米国等からの軍事物資調達を助けることになった。その反面として、日本の軍事物資調達能力を制約することになったのである*15。マジか。。。軍部って頭が悪いんでしょうか?経済音痴って怖いですね。

  石原莞爾も『世界最終戦論』で「遺憾ながら経済戦は立ち遅れているらしい。原因については、通貨の問題が非常に大きな作用をしている」と述べているそうだ。立ち遅れているどころか経済的な敗戦だと松元崇の評価は厳しい*16

 どのくらい日本から華北に外貨が流れ込んだのかはこの本には記載がありませんが、華北に日本の貴重な外貨が流出し、日本経済は行き詰まり、国民生活は急速に窮乏化していったという。

 しかし、軍部による満州事変が景気回復をもたらしていたと思い込んでいた国民は、生活が苦しくなったのは「持てる国」である英国のスターリング・ブロックや米国のスムート・ホーリー法による関税障壁が「持たざる国」である日本を締め出しているせいだと思い込み、対英米感情を悪化させていったと松元崇は批判的に論じている*17。しかも国民だけでなく軍部も対英米感情を悪化させていったという。おいおい。完全に自爆やろ、これ。

円元パー政策の放棄ーーー戦争回避の最後の選択

 経済原理を理解していた者にとって「円元パー」政策は誤りなのは明らかだった。昭和13(1938)年5月に第一次近衛内閣の池田成彬蔵相は、これまでの政策を一転して、満州、朝鮮、華北といった円ブロック向けの輸出を制限して円ブロック内のインフレーションを放置するとともに、「円元パー」政策を放棄し、英国との協調によって法弊をベースとした新たな通貨構想を打ち出した。それは、華北における経済戦の敗北に終止符を打とうとするものだった*18。円元パー政策を実施して二ヶ月後のことだった。

  この池田構想に英国は賛成の意向を示した。しかしながら、それまで円ブロック化政策の下に華北向け輸出で潤っていた中小商工業者や雑貨業者にしてみれば、池田構想は大きな打撃をもたらすものであったため、中小商工業者から強力な反対運動を受けることになる。しかも、彼らは円ブロック自給圏確立を主張していた軍部支持にまわった。円ブロック化政策は、中小商工業者たちへの実質的な補助金ばらまき政策でもあったのだ*19

 結局、池田構想は昭和13年10月の漢口攻略後に政府内部の強行路線の前に押し潰されてしまう。しかも、この強行路線は軍部ではなく、政府主導で行われた。弱腰を見せたら為替が下落するのではないかと心配したそうだ*20。日本政府は、昭和14年3月には華北での法弊流通を強制的に禁止し、華北重要輸出品12品目についての輸出入為替を聨合銀行の一元管理に置くなどして強権的な問題の解決を図った*21

日・英米関係の悪化ーーー天津事件、日米通商航海条約の破棄

 池田構想と並行して、宇垣外相による和平工作も行われていたが、軍部や右翼から「英米の走狗」「対英媚態外交」と攻撃されて、宇垣一成は辞任する。 

 宇垣の辞任後、米国は、昭和13(1938)年10月に中国の門戸解放、機会均等を守るように日本へ要求した。それに対して、新たに就任した有田八郎外相が、同年11月に近衛首相が表明していた「東亜新秩序建設」声明に関して「事変前の事態に適用ありたる観念および原則」は、そのまま現在および将来の事態には適用できないと回答すると、米国はそれを日本が従来の門戸開放政策を反故にしたものを受け止め、同年12月30日に日本の「新秩序」を認めないとして国民政府支持を明らかにした*22

 アメリカの態度の変化に驚いた有田外相は、軌道修正し、米国のとっていた貿易政策にあわせて米国中心とする貿易を確保しようとする政策を展開しようとした。この時点でも対米融和路線だったのだ。

 しかし、昭和14(1939)年4月に勃発した天津事件ですべてがおじゃんになってしまう。天津事件は、親日派の中国人を暗殺した犯人が天津租界へ逃げ込んだのに対し、日本軍当局が犯人引き渡しを要求したが、それを英国側が拒否したことで、本間雅晴天津軍防衛司令官が英仏租界への交通制限の実施という強攻策をとったことで日英間の関係が悪化した事件である*23

 最終的に日本軍の思惑通り*24に英国と協定を結び事件を解決した(昭和15年5月)。実は、天津事件発生の五ヶ月後、昭和14年9月に第二次世界大戦が勃発、ドイツ軍と戦争が始まってしまったのだ。日本に労力を割いている暇がなくなったのである。

 しかし、日本軍の強硬姿勢に反発したのが米国だった。昭和14(1939)年7月、米国は日米通商航海条約の破棄を通告、昭和15年1月に失効させ、石油とくず鉄の輸出許可などに踏みきった。米国から輸入した軍事物資に依存して大陸で戦っていた日本にとって大きなショックを与えるものだった*25

 日本政府は、改めて「東亜新秩序」が排他的なブロックではないことを強調して米国との関係を取り繕うとした。昭和15年3月の外交文書では「東亜は、全く日本も平等の条件において全世界に開放して可なり」と書いたものの、米国の姿勢を変えることはできなかった。石橋湛山によれば「米国は今正式には交戦国ではないけれども、少なくとも経済的な交戦国」のような状態であった*26

 「経済的な交戦国」となったという時に見落としてならないのが、国際的な借款という面での影響である。当時の米国の対外借款は民間主導ではなく政府主導になっていた。その状況下で「経済的な交戦国」になったことは、米国から借款できないことを意味していた。

 「円元パー政策」で多くの正貨(外貨)を失っていた日本は、ここにおいて借金も難しくなったのだ。そもそも輸入するための外貨が円元パー政策で華北に流出しており、しかも借金して外貨を得ることもできなくなったのだ。

対米感情の悪化で狂う合理的な判断

金の献納運動

 このような状況で軍事物資の輸入資金を確保するための「金の献納運動」が強化される*27。これが余計に国民の対米感情を急速に悪化させた。この金の献納運動の熱心さは、日本の「正貨(外貨)」不足の深刻さを現していた。昭和12年から16年までの献納による金の累計は341トン、それに対して対米現送された金の累計324トンとほぼ見合っていた(合計12億円の対外収支の決済に相当)*28。これだけの金を国民から回収したのだ。

 献納運動を具体的に見ていくと、盧溝橋事件の起こった昭和12年12月には金確保のために工業用・医薬用を除く金製品の製造を原則禁止、昭和13年に円元パー政策をとると正貨が大量に流出し、政府は金資金特別会計を設置して、退蔵金の回収にあたった。金貨の鋳つぶしが禁止が解除され、昭和16年までに765万円の金貨が買上げられて鋳つぶされた。そして、新聞社が窓口となる第一次金献納運動がはじまり、昭和14年には地方長官!が率先して第二次献納運動を展開、昭和15年には政府が直接、市中から退蔵金回収が行われるようになった。必死なのが伝わります。その結果の、上記の金の数字なのである。

 これは対米感情が悪化して当然だろう。。。アメリカのせいで金がとられると隅々まで庶民も実感したのではなかろうか。ほんとは円元パー政策の失敗だったんですけどね。。。

戦争前に把握していた日米の差

 これまでの軍部の対米関係をおさらいしておこう。中国戦線は米国からの軍事物資に依存していた。そのため、南京攻略直後の昭和12(1937)年12月に出された大本営陸軍日中戦争収集案には「対米親善の為経済上の提携及與論の好転に努め(中略)日満支米間の経済関係を調整利導す」としていた*29

 昭和13(1938)年には、大蔵省次官から企画院次長になっていた青木一男(近衛首相とは旧制一校時代からの友人)が各省庁次官を集めて日本の戦争遂行能力の分析を行ったが、山本五十六海軍次官、山脇正隆陸軍次官をはじめ軍人を含む参加者全員が一致したのは、日本は英米との長期戦に堪えることはできないという結論だった。その結論は近衛首相と宇垣外相にも極秘に報告された*30

 天津事件直前の昭和14(1939)年3月に戦時物資の動員計画を立案した企画院の文書も「東亜新秩序」確立のためには対米関係の調整が最も重要であると分析していた。米国から日米通商航海条約の破棄を通告された後に成立した阿部信行内閣(同年8月、元陸軍大将)も、昭和15年1月に成立した米内内閣(元海軍大将)も親英米路線には変わりなかった。

 安倍内閣が組閣した昭和14年8月に陸軍の日独伊三国同盟案に関する五相会議が開かれたが、この時の海軍省の米内海軍大臣山本五十六次官、井上成美軍務局長、石渡荘太郎蔵相は英米に勝てる見込がないと強硬な反対を貫いている。昭和14年末にも満鉄調査部も、経済的観点から日米海鮮の不利を指摘していた。昭和15年初頭には陸軍は「戦争経済研究班」を立ち上げて日本の持久力を分析したが、米英との経済戦力差は20対1、開戦二年間は備蓄戦力により抗戦可能であるが、持久力は堪えがたいというものであった*31。よくわかっているじゃんね。。。

 このような対英米戦争に勝ち目はないという合理的な姿勢は、経済戦の敗北で国民生活が窮乏化するなかで変化していってしまった*32

 また、アメリカは中国に利害関係がないため参戦しないという甘い見通しが陸軍から出はじめた。海軍も、第二次世界大戦独ソ戦がはじまりドイツが優勢になると、日本が南進しても石油の禁輸はありえないだろうという希望的な観測が行われた。昭和16年7月に南部仏印へ進駐、希望的観測は打ち砕かれ、たちまちのうちに石油の禁輸を招いた。日本は真珠湾攻撃をしかけ最後の賭けに出る(大東亜戦争/太平洋戦争)。松元崇は、なぜ戦争という不合理な選択したのかをこのように説明するのである。

 

このシリーズ18回まで書きましたがここでひとまず終了です。

 

なぜ日本は戦争を選択したのか?

 その一つの答えは、明治維新当初から守り抜いてきた財政規律を破ったから、と言えるでしょう。財政規律を守っていれば戦争はできなかった。国際的にも孤立しなかったでしょう。

 財政規律を破ったから満州国に対して本国を犠牲にして開発が行われる(資本の流出)。財政規律を破るから軍隊に若い労働力が奪われ、膨らみつづける(労働力の流出)。軍部が金融政策音痴だったため「円元パー」政策で正価=外貨=金が流出する。

 戦時中になり、本国日本が更に困窮すると満州国支配下華北地域も阿片マネーに頼るし、軍隊に奪われた労働力は学徒動員で賄い、更に戦争末期は強制連行で労働力を賄うようになります。外貨のために金献納運動に励み、おそらく阿片で中国人から回収した外貨を闇資金として活用していたでしょう。

 

 日露戦争は財政規律を超えた戦争でした。政府も軍部もそのことを理解したうえで、タイトな資金繰りのなか、お金の計算をしながら(戦争をいつまで続けられるのか計算しながら)国運をかけて戦い、辛うじて勝利しましたが、莫大な財政的な負債を背負いました。

 日中戦争支那事変)から大東亜戦争は、資金繰りを意識する財政規律という観点が消し飛んでいるので合理的な判断ができるはずがありません。戦争も資金に制約されるはずなのに、その意識が無くなり、戦争をマネージメントできなくなります。戦争を「終わらせる」という主体的な発想ができなくなります。

 資本、労働力、正貨(外貨)を流出させてから戦争をしても負けしかありえなかった。その莫大なツケを国民だけでなくアジア諸国に押し付けたのです。

 

 これまで様々な本を読んできましたが、財政規律を守らなかったからと指摘したのは松元崇さんの本が初めてでした。松元崇さんの本のまとめ作業をしてきましたが、一読では把握しきれなかった問題の構造がくっきりと見えてきました。多くの学びがありました。書き漏らしたことも多々あります。松元崇さんの著作が多くの人に読まれてほしいと思います。

 

 また、余力のある時に戦時体制下の財政がどうなっていたのかまとめたいと思います。財政規律が崩壊した軍事国家はどのように財政的に破綻するのか。戦争末期には歳出額と同等の軍事費を拠出するに至ります。万が一、戦争に勝ったとしてもこれだけの負債を抱えたら立ち行かないのです。日露戦争ですらあの参上です。万が一、大東亜戦争に勝ったとしても財政的、経済的敗戦は免れません。

 とりあえず今回のシリーズはここで完とします。最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

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 余談になりますが、円元パー政策を詳しく知ってはじめて、関東軍が阿片に手を出した理由が私なりにわかりました。日本から中国へ流れた外貨を関東軍は阿片で取り戻しているんですよね。阿片なら中国人がいくらでもお金を払いますもんね(阿片の中国史ーーー薬物依存は財政赤字を助く。富と流通のあだ花・芥子 - kyoyamayukoのブログ)。点と点がつながりました。でも、阿片取引は闇取引なので、回収した外貨は表にまわってきません。金の流れを追った本を読んでみたいなぁ。

 

阿片について書いたblogはこちら。

【追加】東亜同文書院と地下人脈(1)ーーー反戦運動と阿片ネットワーク - kyoyamayukoのブログ

東亜同文書院と地下人脈(2)ーーー里見甫を中心に - kyoyamayukoのブログ

古海忠之(1)ーーー渡満から満州財政、そして阿片政策 - kyoyamayukoのブログ

阿片の中国史ーーー薬物依存は財政赤字を助く。富と流通のあだ花・芥子 - kyoyamayukoのブログ

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

    日本、金本位制停止

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1924年 第二次奉直戦争で陸軍が裏工作(政府閣僚に知らせず介入)

1925年 宇垣軍縮普通選挙法・治安維持法成立

    イギリス、大戦で離脱していた金本位制に復活

1927年 昭和の金融恐慌

    南京事件(※蒋介石北伐による南京占拠で居留民被害)

    枢密院で緊急勅令否決、若槻内閣総辞職

    田中内閣成立、緊急勅令可決、モラトリアム発令

1928年 公的資金注入(予算の3分の1)でバランスシート回復

    (~1929)

     第二次山東出兵

     張作霖爆殺

    フランス、金本位制に復活

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1930年 ロンドン軍縮会議

    総選挙で金解禁派の与党が大勝(民政党273、政友会174)

    日本、金解禁

    加藤寛治海軍軍令部長の帷幄上奏が失敗

    米国、スムート・ホーリー関税法、成立

    濱口雄幸首相、狙撃

    非募債主義財政(緊縮財政による軍事費抑制、官吏減俸1割減)

1931年 クレジット・アンシュタルト銀行倒産(世界的な金融不安の始まり)

    満州万宝山事件、中国全土への排日運動の広がり

    満州事変、日貨排斥運動の広がり

    英国、金本位制を離脱(満州事変の二日後)

    若槻内閣崩壊、犬養内閣樹立(高橋是清蔵相)

    日本、金本位制離脱    

1932年 第一次上海事件(対日観の激変)

    井上準之助暗殺(血盟団事件、3月には団琢磨暗殺)

    総選挙、政友会が大勝、選挙中に井上順之助暗殺

    五・一五事件犬養毅暗殺)

    英国、オタワ協定を締結、スターリング・ブロック形成

1933年 国際連盟脱退

    米国、金本位制離脱

    ドイツ、国際連盟脱退

1934年 米国、銀買上げ法制定(銀本位制の中国経済が混乱)

1935年 華北分離政策の始まり

    土肥原・秦徳純協定(チャハル省から中国軍を追い出す)

    冀東防共自治政府を擁立

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

    帝国国防方針の改定

    リース・ロス英国元大蔵大臣、来日

    (林銑十郎内閣は華北分離工作に反対するが、第一次近衛内閣で引き継がれず

     華北分離工作支持。1938年に興亜院を設置)

1937年 盧構橋事件(日中戦争勃発) 

    通州事件

    第二次上海事変

    臨時軍事費特別会計設置(20億円)

    国民党政府、重慶に遷都

    南京陥落、南京事件

1938年 ヒトラー満州国を承認、蒋介石への支援停止

    中国聨合準備銀行、設立(円元パー政策)3月

    池田構想(円元パー政策の放棄、英国と協調して法弊ベースの新たな通貨

         構想)5月

    池田構想が潰れる

    近衛首相「東亜新秩序建設」声明を表明

    興亜院設置(華北地域を内閣管轄下へ)

    米国、日本の「新秩序」認めず国民政府支持を明らかに

1939年 天津事件

    米国、日米通商航海条約、破棄 

    第二次世界大戦勃発

1940年 日米通商航海条約、失効 

    天津事件で英国と協定を締結  

    日独伊三国同盟  

1941年 南部仏印進駐

    米国、対日資産凍結

    石油禁輸

    真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

*1:電書1265/4403

*2:同上

*3:1281/4403:安達誠司『脱デフレの歴史分岐』を参照文献としてあげている

*4:

www.y-history.net

*5:1320/4403

*6:密貿易の詳細は下記の本に詳しく描かれている。

傀儡政権 日中戦争、対日協力政権史 (角川新書)

*7:1320/4403

*8:280:松元崇『恐慌に立ち向かった男高橋是清

*9:1336/4403

*10:1336-1351/4403

*11:1394/4403

*12:Wikipediaによれば、これにより500年に渡った銀本位制が収束したという。法幣 - Wikipedia

*13:なんとこの政策は、もともと高橋是清蔵相時代に(昭和10年11月)に、満州銀行券(元)と日本円と挑戦銀行券の通貨ブロック化を目指す、朝鮮銀行満州中央銀行の業務提携による経済合理性に基づいた政策であったという。1407/4403の注9を参照

*14:同上

*15:1428/4403

*16:同上

*17:同上

*18:1439/4403

*19:1448/4403

*20:同上注11参照

*21:1448/4403

*22:1461/4403

*23:1475/4403

*24:ビルマからの援蒋ルートの一時閉鎖、英国から中国に和平を促す、など

*25:1499/4403

*26:同上

*27:同上

*28:1600/4403:金の献納の運動の様子は本を読んで見てください

*29:1526/4403

*30:同上

*31:同上

*32:1540/4403