kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

SNS 少女たちの10日間

 

日本と同じようにチェコでも未成年、しかも12才の女の子たちが

オンラインチャットでつながり、性被害を受けるという。

若く見える女優(12才以上だがおそらく未成年の年齢)3人が「12才」設定でオンラインチャットしたらどうなるか、というドキュメンタリー映画です。

ゲス過ぎてヘドが出そうなので、映倫的には15才以上の規制が入ってます。

勉強になるとは言え、こどもと一緒に見ることはオススメしません。

小中学生には見せないほうがよいと思います(映倫も規制してますしね)。

高校生でも人を選ぶかもしれない。見ると男性不信になるかも。。。

www.hark3.com

 

三人の女優にはそれぞれ子供部屋を設定し、専門家監修のもと撮影が行われた。

あのチャットはなんのアプリなのだろうか。Skypeなのかな。

12才と登録すると即効で連絡が入ります。

いきなり、マスターベーションする動画(映画はモザイクです)を送り付けられる。

これでもかってくらい、勃起したブツやマスターベショーンの写真や動画が送られてきます。

映画ではモザイクがかかっていますが、未成年の女優たちはナマを見させられているわけですよ。

文化の違いなんですかね?

日本はここまでチャットでやりますか?

Skypeで顔バレしているのに、そんなものを見せてくる日本人男性っているんですかね? というか、そんなことしたら通報案件ですよね?

チェコのオトコは馬鹿なんじゃないの(偏見ですみません)!?

 

パンフレットが売ってなかったのでよくわからないのですが、男たちは女の子を容赦なく性的対象でしか見てきませんが、このチャットルームに入ることでおそらく何らかのOKサインのようなものがあるような感じがします。(性的)出会い、金欲しさで女の子が入ってくるという合意があるような感じがします。でなければ、即自慰動画を送ってこないやろ、いくらチェコ人とはいえ(我に返る)。日本でいえば昔のダイヤルQ2みたいな感じなのかな(古い情報ですみません)。

 

女の子たちは、おそらく好奇心からこのサイトでチャットすることもあるでしょう。

ちょっとした好奇心、冒険心で噂のチャットをしてみると、男たちの性的動画や写真が送り付けられてくる。。。そういうことなのかもしれません。ここで即オフラインにすれば終わりです。

 

映画では、更に、彼らとコミュニケーションをとります。すると。。。

 

彼女たちは、年齢を聞かれ、服を脱ぐように言われ、写真を送るように言われる。

そして誘い出されます。

この映画ではヌードは大人の女性の体を撮影し、胸を小さく加工して!、更に顔を少女と合成してヌード写真を作成し、送りました。すると次は脅されます。「ママにばらしていいのか」「ネットにばらまくぞ」。。。会うように強要されます。

 

最終的に彼女たちは男たちに会います。そのあたりは映画でどうぞ。

 

この映画にはもうひとつ山場があります。

彼女たちに声をかけた男の一人が映画スタッフの知り合いでした。

その男はこどもと触れ合う仕事をしています。最後に、その男と監督らが対面します。

男の二面性がこれでもかってくらいあぶり出された映画でした。

 

でもね、あのチャットサイトでもまともな男もいるわけですよ。

性的勧誘をしてこない男が。

そんな男性に出会い少女は涙を流します。

彼女の涙の意味を、動画を送り付ける男達に理解できるだろうか。

 

この映画はチェコでも上映されたと思うが、モザイクがかけられた男たちはどういった気持ちでいるのだろうか。

 

 

日本ではオンラインゲームのチャットが、未成年との出会いの場となり、

彼女たちを誘い出す手段となっています。

音声が中心なので、ブツの動画を送り付けられることはないし、卑猥なことばかり話す男はバンされるでしょう。

映画のチャットは少女たちの売春の温床になっているようで、お金の話もよく出てきます。日本ではツイッターやラインが温床になっていましたが規制されました(抜け道はあるのかもしれないが)。チェコのチャット運営会社が規制されないのは謎です。法制度の違いなのでしょうか。モラルだけで規制するのは無理でしょう。運営会社を規制して処分するしかないと思います。

学校で性暴力被害がおこったら

 

 

こちらマニュアルは学校管理下で起きた性被害の対応マニュアルです。

「学校で性暴力被害がおこったら」

https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://onestop-hyogo.com/wp-content/uploads/2020/07/tebiki_web.pdf&ved=

 

ぜひ各自治体の教育委員会に普及してもらいたい。

誰でも無料で読むことができます。

 

作成者は兵庫県立尼崎総合医療センター田口奈緒さんです。

被害者対応だけでなく、加害者対応についても記載してあります。

子供のいる家は一度目を通しておくといいかもしれません。

 

 

旭川市で友人・知人からの性被害事件がありましたよね。

「娘の遺体は凍っていた」14歳少女がマイナス17℃の旭川で凍死 背景に上級生の凄惨イジメ《母親が涙の告白》 | 文春オンライン

 

北海道と旭川市に対応マニュアルはあったのだろうか。

 事件を消費するだけでなく、対応策をマニュアル化して一人でも犠牲者が少なくなることを祈ります。また、住まいの自治体の教育委員会に働きかけていきたいと思います。

 

もうひとつの声、はるかな呼び声

 blog記事のシリーズがまとまったので、ここでひとつにまとめよう。元橋利恵さんの『母性の抑圧と抵抗』*1を読んで最新のケアの倫理を学びました。ケアの倫理は近代思想が前提としている「自立 /自律した自我」を相対化し、先の思想にむけた新しい自我論にとって欠かせないものです。この「自立 /自律した自我」という概念は普遍的な概念のように見えますが、実態としては男性*2を主体とした概念であることをフェミニズムは明らかにしました。

 しかし、フェミニズムが「男性」を主体にした概念だと批判したその「男性」像は男性のなかでも特権的な一部に過ぎないでしょう。現代の男性の大半は「自立/自律」とくに経済的自立の重さに苦しんでいます。また、女性が男性と同じように働きはじめると、経済的自立はできたとしてもそれを背負う責任の重さに苦しんでいます*3。「自立して生きていく」とは経済的自立が確保されなければいけませんが、収縮する社会で「経済的自立」するためは辛くて苦しいハードワークが待っています。男女ともに「労働」の負荷が重い。辛くて苦しい。そうではない生き方はないのだろうか。最近の新しい動きを書き留めたい。そのために書いたのが「もうひとつの声」シリーズです。

 「もうひとつの声」とは、発達心理学者のキャロル・ギリガン『もう一つの声』*4にヒントを得ました。ギリガンは発達心理学の「人間像」が男性中心であり、女性には女性の発達があることを指摘しています。抽象化された「人間像」が実は「男性」の人間像であることを気づかせてくれたのです。私のblogでは、ジェンダーの問題に限定せず*5、「近代の人間像=自立/自律した自我」を相対化する「もうひとつの声」を聞き取りたいと意識してつけました。分かりやすく「弱者男性」としましたが、実はもっと底から響いてくる「もうひとつの声」なのです。それは最後に分かってきます。 

 「もうひとつの声」シリーズは、自立/自律しなくても生きていける方法はないのか、その潮流を探っています。資本主義社会を相対化していく潮流。学生運動から始まるコミューンという生き方。でも、コミューンは既に死語になっています。今でも存続するコミューンはありますが、現代では大きな潮流になっていません。

 

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  新卒一括採用、年功序列、終身雇用の時代の異なる生き方。この時代には社会の歯車としてレールの敷かれた人生、就職して定年まで先が見える人生が嫌になって「新しい生き方」を模索する人が出てきます(脱サラやフリーターなど)。これらの新しい生き方ですら「働くのは当たり前」という価値観でした。そこに新しく登場したのがニート、ひきこもりでした。不況となり、労働市場がぎゅっと萎み、労働力が余り、取り残された多数の人がいた。

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 労働力余り時代は労働者は買い叩かれる。安い賃金の重労働。 労働自体に嫌気がさす。厭労働感が広まっていた。

 そんなときに新たな動きが出てきた。生活コストを抑えて「自由な時間を取り戻す」生活のあり方が模索されている。定年後の安定のために今を買い叩いて労働することをやめる。そこで頑張っても苦しい。心身ともに壊れてしまう。将来の安定よりも今の生活をラクにしたい。ひきこもり、働けない。将来を案じて一人で部屋で鬱々といるくらいなら、今をどうにか生き抜く。IT技術も進化したし、日本には過疎地域であっても最低限のインフラがある。やり方によっては、なんとか自活することが可能だ。日本社会にはまだ彼らの居場所は残されている。

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  以上が、ポジティブな面だとするならばダークな面も語らねばならない。今に続く現象は80年代から響く声であった。

 

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アジアで「そとこもり」する男性を特集する『シックスサマナ』。

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自立/自律した個人であるはずの男性のやり場のない怒り。ネット寄せ場に集まり、ヘイトを吐きちらす。ネットで愚痴を吐いているだけではなく、政治と結び付き社会に飛び出る。トランプが大統領選で勝利したように。

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 アメリカのダークな側面を知りたければフィールズ・グッド・マンがオススメだ。

 

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 日本では痛ましい事件が相次いだ。いわゆるひきこもり男性たちの大量殺人事件、もしくはそんな子をもった親の子殺しだ。自立できない苦しみ。この世に生まれ落ちても何一つ楽しいことはなかったのだろうか。この虚しさはいったいどこからやってくるのだろうか。

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 現代人はなぜ生きる意味を失ってしまうのだろうか。このことを正面から取り上げたのが見田宗介だった。

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  私たちが感じる生きにくさや虚しさは個人的な感情であるだけでなく、近代文明が到達し、次の時代へと続く過渡期の最中で吹き上げてくるものだった。地割れした底から吹く虚しさの正体。文明史として、その歴史の中に生きる一人の人間の底から吹きあがる虚しさは「二重のリアリティの疎外」から生まれてくる。「透明人間」の慟哭は文明の底から吹きすさぶ風だ。この虚しさ大風にさらわれて飛んでいってしまわないようにするには「今」を取り戻すしかないのだ。

 もうひとつの声。それは新しい時代からの呼び声だ。私たちはそのかすかな呼び声を聞き取って、その先へ向かうのだ。

 

 

 見田宗介の思想はわかった。では具体的にはどのように実践すればよいのか。新しい活動を探してきたが、大原扁理の実践が見田思想=高原の世界の生き方に近いものだろう。大原はおそらく見田宗介を知らない。実践を通して見田思想と一致したといってよいだろう。大原扁理のように誰もがこの境地に到達する道は開かれている。

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*1:

母性の抑圧と抵抗――ケアの倫理を通して考える戦略的母性主義

私のblogではこちら。

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*2:もっと正確にいうと白人の裕福な男性

*3:男性の多い職場で男性と同じく責任を背負って働いてみて初めて、男性って大変なんだなって気づきました。母親は「男がうらやましい」と耳にタコができるほど愚痴ってましたが、果たして彼女にこの責任が背負えるのか。困ったことがあると父親に相談し、決断してもらおうとする母に。。。そして、夫に相談してもスルーされて娘に愚痴ばかりこぼす母に。。。もちろん母親の世代に女性の就職の機会はなく、経済的自立するチャンスが少ないのは理解していますが、家庭内のことを決断したっていいはずなのに。。。と娘時代は思っていたんですよね。そこまで依存しなくてもいいのに、と。

*4:

もうひとつの声―男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ

*5:但し、フェミニズムはこのように一般化して語ることがケアの担い手を見えなくしていると批判する。その批判は当然だろう。私が言いたいことはケアの倫理が相対化した近代の自立した人間像=白人男性が無意識に前提となっていて、ケアの担い手の女性が排除されているように、男性においても特権的な一部の男性のことであって、すべての男性が該当するわけではないということであえて「弱者男性」に触れている。また、この男性像は労働の担い手として男女平等の建前となっており、男と同じように働く女性にもこの自立像が押し付けられて責任の重さに苦しむ人もいるだろう。

もうひとつの声・番外編ーーーべてるの家、当事者の集まり

 「自立/自律した個人」ではなくても生きていく方法。今回の流れでは取り上げなかったが、日本で最も有名な事例は「べてるの家」ではないだろうか。

 べてるの家とは、北海道浦河町に設立された精神疾患の当事者が活動する拠点であり、職・住をともにして暮らす場所だ。浦河町の日赤病院の精神科の患者たちの活動から始まり、北海道地方に属する浦河町の特色を生かし、日高昆布の販売を開始した。統合失調症を抱えているため、時間通りにはできないし、手早くもできない。自分たちなりに試行錯誤しながら稼ぎ、その稼ぎで衣食住を賄う。

 事業だけではなく、当事者グループらしく自分たちの症状について語り合う自助グループ活動もしている。有名なものに「当事者研究」があり、自分の見る幻想などの症状を自分なりに分析して発表するのだ。ユニークな活動は当事者とそれを支える精神科医川村敏明、ソーシャルワーカー向谷地生良によって展開されている。

 「べてるの家」の活動を模倣した拠点が全国各地に作られていった。

 私は横川和夫の『降りていく生き方』で、べてるの家を知った。ここで「降りていく」というのは「普通」であることから「降りていく」という意味だ。「降りる」というと消極的でネガティブなイメージがあるかもしれないが、「降りていく」ことで「普通」だったら見えなかったものが見えてくる。「普通」に捕われるから苦しい。「普通」に自分を合わせていくから辛い。そんな「普通」から降りていくと新しい視界が開けていくのだ。自分らしさを取り戻す。降りていく作法を学ぶことができるだろう。

 

降りていく生き方 : 「べてるの家」が歩む、もうひとつの道

 

悩む力――べてるの家の人びと

 

治りませんように――べてるの家のいま

もうひとつのささやきーーー不労所得という欲望

 もうひとつの「声」ではなくもうひとつの「ささやき」。声ではなくささやきにしたのは、悪魔*1のささやきをイメージしたから。働きたくない、働くのが嫌だという層のもうひとつの生き方として不労所得を得るという生き方がある。IT技術の進化によって、これまでよりは容易に不労所得を稼ぐことが可能になりました。

個人投資家デイトレーダーの登場

 このあたりはあまり詳しくないので思いつきで書いていきます。90年代後半から00年代は、金融とIT技術が融合し、個人が金融市場に参入することが容易になりました。ネットの個人投資家の登場です。なかでもデイトレーダーとなり、流動性の高い市場で売買を繰り返し、一気に稼ぎ有名になった若者達が現れました。ITバブルで荒稼ぎした若者に憧れて、参入して行った人たちは多いでしょう。市場の波に呑まれながらも、未だに跡を立たない生き方です。バブルが弾けても、リーマンショックがあっても、若者を吸い寄せる生き方になりました。一攫千金に憧れる人をひきつけてやみません。

 もちろん、誰もがそんなに簡単に稼げないのですが、ごくまれにサラリーマンの生涯年収以上を稼いでいる人もいます。しかし、彼らはリタイヤしません。秒速の市場の刺激にはまっていきます。あふれるほどお金を持っていても、数字に終われて生きているように傍目には見えますね。それだけあるのなら、もっと自由に生きたらいいのにって思ってしまうんですけどね。

ブロガー、アフィリ、YouTuber、エトセトラ

 このあたりは私なんかが詳細を書く必要がないと思うので書きませんが、ポイントはクリック「数」、ビュー「数」です。クリック数、ビュー数を稼ぐために必死にならざるをえません。

 個人投資家でもYouTuberでも、数字にはまって追われていくようになるんですよね。金の魔力に嵌まっていきます。そうなると、サラリーマンとしてハードで働くか、自営として数字に終われて働くかの違いしかありません。もちろんそれが楽しくてはまっていくなら、それはそれで自由だと思います。刺激がない毎日では辛いという人たちもたくさんいますからね。

まとめ

 資本主義社会でハードな労働力を提供してサラリーをもらうのか、利益追求するために数字を追っていくのか。。。そういう話に過ぎないので、「自立/自律した個人」として資本主義社会を支えていくのだと思います。不労所得ラクそうに見えて数字に終われる生活になるんですよね。もっとラクして生きていけないもんなのかしら。まぁ、月給と不労所得がバランスよく稼げるといいんですけどね。お金は余裕を生みますし。

 前回のblogに書いたように、ハードな労働からは撤退し、生活費を抑えて自由時間を確保する生き方は資本主義経済の「競争」から降りていく生き方だ。一方で、不労所得を得る活動は、月給による労働からは開放するが、更なる市場競争へ突入する。それはそれで疲弊するので向き不向きがあるかもしれません。

 

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*1:資本主義という欲望の悪魔

もう一つの声(3)ーーー半分降りてつながる。素人の乱、ギークハウス、しょぼい革命、山奥ニート

 

 近代の「自立/自律した個人」ではない生き方の模索として、前回は90年代後半以降に社会に広がった厭労働感についてまとめた。

 

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 働きたくない。働けない。あんなに頑張れない。なんで働かなければいけないのだろう。安定した大手企業に勤めるために小学校時代から受験勉強のラットレースして、良い大学へいき、就職しても報われない。なんでこんなに苦しいんだろう。頑張っても報われない。働いても報われない。この生きづらさを変えていこうとする動きが現れます。

前史ー法政の貧乏くささを守る会から「素人の乱」へ

 デフレの不景気、就職氷河期時代に起こった運動が90年代半ばの松本哉*1の「法政の貧乏くささを守る会」でした。法政大学は学生運動の牙城の一つでした。90年代半ばまで法政に限らず明治大学など左翼の「アジ文の立て看板」がありました。しかし、大学の再開発で古臭い建物が壊され、新しくキレイなタワーに立て替えられていきます。

 アジ文の立看板、略称「たてかん」はこんな感じです*2。今の学生はほぼ見たことないかと思います。画像を探していたら、このアジ文の文字のことを「ゲバ文字」ということを知りました(笑)。

 ちなみに、90年代半ばでは、誰もこんな看板に興味なくスルーしてましたよ。ごく一部の学生がたてかんを作っていたのだと思います。

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アジ文の立て看

 松本哉たちは大学当局が再開発という名で学生運動の名残のある汚い学生会館や看板を消してクリーンなキャンパス にしようとする流れに抵抗します。面白おかしく抵抗しますが、よく見ると真面目な権力闘争でした。なお、都心の私大の学生運動のたてかんは大学の再開発で消滅し、2000年代のキャンパスはキレイになり無害化され、学生自治も消えていきました。

 大学を卒業すると松本哉らは高円寺を拠点に2005年に「素人の乱」の活動をはじめます。最初はラジオスタジオだったのですが、それがリサイクルショップになっていきます。もちろんショップの経営だけでなく、さまざまなイベントを催し、ゆるいつながりが生まれます。ここで注目しておきたいのは商店街を拠点に生業を始めたことだ。リサイクルショップを経営することで自活することが可能になった。彼らは仲間とゆるく働き、運動やイベント活動などして生活している。

 素人の乱は、法政大学から出発したことがあって学生運動の流れを組みながら、面白く「脱資本主義」を目指す運動といってよいだろう。「高円寺」は彼らを中心にゆるく生きる人たちのたまり場のようになっていきました。

貧乏人の逆襲! (ちくま文庫)

世界マヌケ反乱の手引書: ふざけた場所の作り方 (単行本)

 

phaのギークハウスの登場 

 1978年生まれのpha*3はもろに就職氷河期世代と言ってよいだろう。京大の寮に住むことで家族から解放されました。彼が暮らした熊野寮は学生の自治寮であり、学生運動の拠点でもあり、自由な気風の残る寮でした。

 寮の楽しさと開放感を堪能した彼は、時代の雰囲気からいっても「働きたくない」と思う気持ちがわきます。とはいえ、男性であり、京大出身ならば同世代の中では優良な就職先を選べたはずですが*4、自分なりに就職するも働きたくない気持ちが募ります。Phaはついに「ニート」になる道を選び、東京に出てシェアハウスの経営を行うようになります。また、ブロガーとして発信して行くようになります。

 2010年に「ギークハウス」という趣味を中心としたシェアハウスを立ち上げ、これがブームとなり広がっていきます。シェアハウスは同好の士の集まりから民間企業が経営するものまで広がっていきます。これは「仲間と暮らしたい」という欲求というよりも、都会の高い家賃を低く抑えて暮らしたい他者の集まりが求めた「一つの解」でもありました。収入のあがらない時代、デフレ時代の申し子のように静かにシェアハウスが広がっていったのです。

 phaの特徴は、シェアハウス生活とその生活のあり方をネットで配信したことに大きな意味があったのかもしれません。ネットを介して「こんな生活があるのか」と知られていったのです。

 シェアハウスはコミューンとは何が違うのでしょうか。ギークハウスは「趣味」という共通性はあっても、緩いつながりに過ぎません。目的が強すぎない弱い紐帯で生活の場をともにするというところが新しかったのかもしれません。シェアハウスの家賃と光熱費を払えば、あとは何をしていても自由です。但し、phaは2019年にシェアハウスから卒業し、現在は一人暮らししているそうです。

 phaは家族の話をあまりしません。勝手な想像ですが、彼は京大に合格するくらい頭が良いわけですが、受験勉強に疲れたのではないでしょうか。親から勉強するように言われて合格しても、次は就職して働かなければならない。頑張りつづけなければいけない人生にふっと嫌気がさしたのではないでしょうか。彼の本を読んでいると「めんどくさい」という言葉がよく使われていますが、それを戦略的に使っているそうです*5。「めんどくさい」「だるい」アピールすることで頼られないようにするというようなことが書いてあったと記憶しているのですが、そんな彼の文章を読んでしみじみ「生まれながらに能力が高いため、周りから期待されてやらされてきた人生なのだろう」と思いました。特に親は過剰に彼に期待したのかもしれませんね。

 「だるい」という言葉が彼の自由を確保するお守りになります。彼が「ニート」になって生き直したことはやけに納得するのです。自分のやりたいことをして、ラクに生きるために、最低限の稼ぎでそこそこ暮らせる方法を彼は編み出します。その姿に共感した人は多いのではないでしょうか。

持たない幸福論 働きたくない、家族を作らない、お金に縛られない (幻冬舎文庫)

 

えらてんのしょぼい革命のススメ

 「えらてん」こと矢内東紀*6は更にアグレッシブに「働くのが嫌なら仕事をやめて自営すればいい」と「しょぼい革命」を提案します。しょぼくてもしょぼいなりに食っていければいい。「できない人間なりに仕事をして食っていく方法」をしょぼい革命と呼んでいます。

 2015年に豊島区の商店街を拠点にしてリサイクルショップやシェアハウスなどやり、一躍有名になったのかイベントバー「エデン」かもしれません。稼ぐ方法ならいろいろある、大金がなくても起業できるという提案が新しかったかもしれません。YouTubeの配信や書籍から影響を受けて起業した人も多いでしょう。「イベントバーエデン」が広がっていきました。商店街を拠点にしている点が「素人の乱」に似ていますね。

 著作やツイッターでも公表しているようにえらてんは「双極性障害」を抱えています*7。また、彼の妻は統合失調症です。精神疾患を抱えていてもアグレッシブに活動し、稼ぐ方法を編み出しました。また、彼の父親は学生運動の闘士であり、彼自身は親が運営するコミューンで育ちました*8。「革命」という言葉が使われるのは単なる偶然ではないのです。学生運動の系譜の先にえらてんの活動があるのでした。

 松本哉やphaとえらてんが大きく異なる点は結婚し、子供がいることでしょう。松本やphaは学生の延長のような生活をしているのに対し、えらてんは家族を形成しています。「しょぼい革命」はしょぼいどころか家族を養っているので「すごい」ですよね。松本やphaは「家族」をもつ責任の重さより自由を選んでいますが、えらてんは自由でありながら更に家族まで形成するアグレッシブさです。コミューンで生まれ、育ったえらてんは、収入の有無で結婚を考えていない、収入と結婚の常識にしばられていないところがあります。

しょぼい起業で生きていく

しょぼ婚のすすめ 恋人と結婚してはいけません! (しょぼい自己啓発シリーズ)

 山奥ニート、どこでも生きていける方法

 以上の三つは都心で展開された「新しい動き」ですが、IT技術の進化で「山奥」で実践 する者が現れる。愛知県名古屋市出身の石井あらたは、教育実習でのパワハラで働くことが怖くなる。両親ともに小学校教師のため「教師」以外の職業選択のイメージがわかなかったのかもしれないですね*9

 ネットで知り合った友達に提案されて、和歌山県の山奥の家で生活を始めます。家賃と光熱費等で月二万払えば、あとは自由なのです。山奥で暮らすことで生活費を落とし、その分だけ少し働いて稼ぐという生活。過疎の村には「定職」は少ないが、季節ごとの生業がある。みかんや山菜などの収穫作業、夏、冬休みの観光業など。そこで働いて稼いでおけばあとは自由なのだ。wi-hiがあればネットができ、Netflix、AmazonPrimeで映画も見放題、オンラインゲームもできる。ひきこもりやニートが子供部屋で遊んでいた環境がすべて整っている。一番大切なことは、小うるさい親から「独立」して文句を言われないことだ。

 生活はリビングの共同部屋と個室がある。個室から出てこなくてもOK。最低経費を支払い、食事当番の時だけは食事を担当すればあとは自由だ。コンビニまで車で1時間の山奥なので、その環境に堪えられる人がやってくる。個室で閉じこもっていたニートにとっては、山奥でも気にならないし、自然の中なので人の視線を感じずに自由に出歩けて開放感がある。

 山奥ではなくて名古屋でもできたのではないかと思ってしまいそうだ。東京だってできたわけだし。しかし、名古屋は家賃も高いし、光熱費、食費を合わせると最低12~13万円は経費がかかるし、それをアルバイトで稼ぐとすると月20日間は働く必要があるだろう。それはしんどい。素人の乱、しょぼい革命は都心の商店街だから生業(リサイクルショップ、イベントバー)が成立していたことが分かるだろう。都心だからこそ人が集まり、稼げるのだ。

 もしくはphaのように「ギーク」、特殊な才能があれば一定の収入を得ることもできるかもしれない。東京でもなく特殊な才能が無くても生きていける方法を編み出しのが「山奥ニート」の新しさなのかもしれない。人口減少社会の日本では、地方に空き家が増加している。低価格、下手したら無料でも貸したい大家はいるだろう。実はこの「山奥暮らし」の形態は日本では細々と続いていた。昔から北海道などの山奥に移住して住んでいる人はいた。でも、この暮らしをネットで配信し、共鳴する人たちが出てきて共に暮らしはじめるところが新しいのかもしれない。

 コミューンと比較をしよう。山奥ニートの彼らは、畑を作るが失敗する。作りやすいものを作るが、自給自足を目指していない。食材は近所の農家や地域のスーパー、Amazonに頼っている。過疎地域のすみずみまで行き届いた日本の販売流通網のおかげで、郵送料さえ払えば食材はどこに住んでいても手に入るのだ。資本主義社会を否定するのではなく、今の経済社会を利用して自分なりに生きる。利潤を生み出すためのハードな労働をやめて、生活コストを下げて、流通インフラやネットインフラを生かしてカスタマイズして生きる。資本主義社会から半分降りて、自由に生きる。誰かと話したければネット配信すればいい。興味を持った人があなたを訪れるだろう。そのうち自ずと人が集まって来る。

 石井あらたは結婚した。子供はまだいない。今後の行方に期待したい。

 

「山奥ニート」やってます。

  

 まとめ

 大きな流れから語ると、素人の乱熊野寮の開放感を体験したphaのギークハウス、コミューン育ちのえらてんのしょぼい革命は学生運動の遺産を引き継いでいるといえるだろう。マルクス主義思想は消えたけれど、あの時代の自由に生きる雰囲気、収入がすべてではない生き方は継承されたのではないだろうか。山奥ニートの彼らが住む住宅は、元教員らがなんらかの理想の元に建てた家であり、使用されなくなって彼らが住むようになったのだ。先人の撒いた種が、ゆるく広がり芽が出たのだ。「理想」は消えたかも知れないが、その実践の跡に彼らの居場所を提供した。日本のどこかに、都心のビルに、商店街の片隅に、山奥に、彼らはたどり着き暮らしている。

 大きな思想は消えて、彼らはひたすら「個人」の生きやすさを求めて動いた。自分にとっての「生きやすさ」「暮らしやすさ」は、他の誰かにとっても生きやすく暮らしやすかった。ネットを活用して自分たちの暮らしを配信すると共鳴する人がいた。点と点が繋がった。

 生きやすさのポイントは、ハードな労働からの解放から始まる。ハードな労働は終身雇用制の亡霊であり、安定と引き換えに「今」を買い叩く生活だ。老後のためにすべてを擦り減らして働かなければいけない。 

 「今」を生きることは、具体的には「自由な時間を取り戻す」ことだ。これまであげた事例のすべてに共通するのは生活費のコストを抑えて自由に生きる方法だ。それはphaやえらてんのように積極的に選択して行動するものもいれば、パワハラ等で「ひきこもり」「ニート」になり消極的に選択した場合もある。この暮らしをやってみると思っていた以上に「開放感」があった。

 新しい動きは、宿り木のような暮らしかもしれない。一時的な生活なのかもしれない。phaも共同生活から一人暮らしに切り替えた。年齢によって暮らし方も変わっていくだろう。途中でこの生活をやめて働き出したっていいだろう。

 「老後はどうするんだ?」という今の社会の常識が囁いてくる不安もついてまわるだろう。でも、そもそも「今」働けず、何もできず、「俺の将来はどうなるのだろうか」と鬱々と一人部屋に篭っているよりは、「今」できることをして生活してみる。生活することで「今」を生きることができる。自分ができるだけ気持ち良く、楽に暮らせる生活を探してみる。自分なりに生活をカスタマイズしてみる。日本社会は奥深い。都心にも山奥にもあなたの居場所はきっとある。 

 「自立/自律した個人」における「経済的自立」は、収縮する社会では重い労働と責任が待っていて生きにくい。今の社会のいいところに乗っかって、自分なりにカスタマイズして生きていく。自分がラクで生きやすいパーソナルな生活が、他者にも共有されてソーシャルなライフが始まり、新しいコミュニティが生まれる。

 

 夢のあることばかり書いたが、最近の話もしておこう。新型コロナウイルスの大流行は、これらの新しい動きを一変させた。シェアハウスやイベントバーは感染リスクが大きく事業ができなくなっている。山奥ニートは新たな入居者は募集を中止している。コロナ下でようやく築いた居場所を失った人もいるだろう。100年に1度の厄災はこの小さな足跡をさらおうとしている。

 

■シリーズをまとめました。通して読むと全体像がわかります。

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

*1:松本哉 - Wikipedia

*2:こちらのサイトのUFO教授藤木文彦@UFOprofessorさんのツイートから引用。フォントとしてのゲバ字 - Togetter

*3: pha - Wikipedia

*4:同時代の京大出身理系の女性が地方のIT子会社などに就職しているし、東大文Ⅲの女性は地方銀行に就職している時代でした。信じられませんか?能力があっても弾かれるのです。東大、京大出身だからといって大手に勤められるわけではないのです。そして「東大なのに」と逆差別を受けることもあるそうです。90年代半ばには東大には就職課はありませんでした。

*5:この本でphaが語っていました。

「死にたい」「消えたい」と思ったことがあるあなたへ (14歳の世渡り術)

*6:矢内東紀 - Wikipedia

*7:そのほか彼は宗教家、政治家などの側面もあり、一言では語れない人物です。

*8:この対談で親について、コミューンでの生活について語っています。親の運営するコミューンは弁当屋などして小規模で存続しているようです。

しょぼい生活革命

*9:愛知県は自動車産業が盛んで、労働人口不足。人口流入県なのです。自動車産業なら職につける地域です。しかも、派遣でも給与の高い地域なのです。

現代人はなぜ生きることの意味を失ってしまうのか

 

 前回のblog記事は苦しい内容でした。

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 荒野の砂つぶのような存在。割れた地面の底から吹き上げる風。虚しく寂しい。寒々しい。この虚しさはどこから吹き上げてくるのか。なぜこんなに虚しいのか。こんなにも虚しいのになぜ人は生まれ、死ぬのか。初めから生まれなければよかった。反出生主義が流行るのはわからないでもない*1。人は生まれて来ないほうがよいのか。なんで生きるってこんなに苦しいのだろう。「現代人はなぜこのように、生きることの意味を失ってしまうのだろうか」*2という問いを正面切って分析しているのが見田宗介です。

 

  見田宗介の思想はとても大きなものですが、この本を参考に、重要な部分をまとめていきたい*3。 

現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと (岩波新書)

ピーダハーンはその生きることの「意味」などを問うこともなく幸福であった。それは彼らの生の現在が他者との交歓と自然との交歓によって、直接に充溢していたからである。 108ページ 

 解説が必要だろう。ピーダハーンとはアマゾンの小さい部族ピダパンのことで、見田は「その実際の発音はピーダハーンという、森の中でこだまし合っているような、美しい響きであるらしい」[上記94ページ]と気に入っており、ピーダハーンと呼ぶ*4

 

現在の生に不幸な者だけがこの不幸を耐えることの根拠を求めて、意味に飢えた目を未来に向ける。未来にある「救済」あるいは「目的」のための手段として現在の生を考えるという、時間意識の転倒を獲得することによって、多くの目に見える成果を達成することができるということを、文明は知る。 109

 難しくなってきました。卑近な例になりますが、苦しい生活を変えるため大手企業に就職するために、小学生から受験勉強して高偏差値の学校を目指すということを考えてみよう。将来の目的=高偏差値大学の合格を目指して、現在の生を考える=合格の手段として受験勉強する、ということだ。<現在>の時間は手段に過ぎない。現在は未来のためにあるので、「今」を今として生きていないと言える。

 卑近な例は「個人」の話だが、この今が未来のために手段となる時間意識は、「人類」*5の話として捉えてほしい。

<未来のための現在> =<目的のための手段>というこの文明の時間意識の構造によって、第Ⅰ局面の人間の渇望であった、生存のための物質的な条件の確保という課題を追求し、見事に達成してきたのが第Ⅱ局面であった。 109

 

 第Ⅰ局面、第Ⅱ局面については序章10ページの下記の図5を参照してほしい。見田はロジスティック曲線と呼ぶS字型の曲線を人類史に当てはめて分類している。

 

 

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 徹底して合理主義的なビジネスマンとか受験生などの典型像に見られるように、未来にある目的のための現在の手段化という時間の回路は、他者との交歓とか自然との交歓から来る現在の生のリアリティを漂白するが、この空虚は未来の「成功」によって十分に補うことができるので、空虚感に悩まされることはない。109

 第Ⅱ局面、近代の過程とは坂の上の雲を目指すので空虚感に悩まされない。

世界の中で、アメリカや西・北ヨーロッパや日本のような高度産業社会において、生存のための物質的な基本条件の確保という、第Ⅱ局面の課題が達成されてしまうと、この自明の目的のための現在の生の手段化という回路が、初めて根拠のないものとなる。 109 

  しかし、近代化を達成すると目標がなくなる。未来のための目的が消失し、手段としての今が空虚になるのだ。

「近代」という時代の特質は人間の生のあらゆる領域における<合理化>の貫徹ということ、未来におかれた「目的」のために生を手段化するということ、現在の生をそれ自体として楽しむことを禁圧することにあった。110 

先へ先へと急ぐ人間に道ばたの咲き乱れている花の色が見えないように、子どもたちの歓声も笑い声も耳には入らないように、現在の生のそれ自体としてのリアリティは空疎化するのだけれども、その生のリアリティは、未来にある「目的」を考えることで、充たされている。 110 

未来へ未来へとリアリティの根拠を先送りしてきた人間は、初めてその生のリアリティの空疎に気づく。こんなにも広い生のリアリティの空疎の感覚は、人間の歴史の中で、かつて見なかったものである。

それは第Ⅱ局面の最終ステージという「現代」に、固有のものである。第一に<未来への疎外>が存在し、この上に<未来からの疎外>が重なる。この疎外の二重性として、現代における生のリアリティの解体は把握することができる。 110

 二重の疎外。二重のリアリティの喪失。これはつまり、

現在の生のリアリティの直接の充実を手放したままで、このリアリティを補充する未来の<目的>を失ってしまう。

 

 地割れした底から吹く虚しさの正体はこれである。文明史として、その歴史の中に生きる一人の人間の底から吹きあがる虚しさ。二重のリアリティの疎外。「透明人間」の慟哭は文明の底から吹きすさぶ風だ。

 

 二重の疎外を私たちはどのように克服すればよいのだろうか。これが現代の問いである。見田宗介は三章で「ダニエルの問いの円環ーー歴史の二つの曲がり角ーー」で語る。が、これはまたどこかで書いていこうと思う。もう一つの声シリーズは、この文脈で書いています。

*1:詳しくはこちら。但し、森岡正博氏は反出生主義者ではない。

www.businessinsider.jp

*2:108ページ:

現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと (岩波新書)

*3:時間に余裕があるときに見田宗介の壮大な思想についてこつこつまとめていきたいと考えている。一言ではまとめられない方なのです

*4:上記94ページでピダハンについて著者が語っているので引用しよう。「ダニエル・エヴェレット『ピダハン』は、1977年から2006年まで30年近くの間、宣教師/言語学者として、アマゾンの小さい部族ピダハンの人たちと一緒に生活をした記録である。アイヌを含む世界中のさまざまな部族や民族の呼び名が、彼ら自身の言語では『人間』という意味であることと同じに、ピダハンもまた彼ら自身の言葉では『人間』という意味であるという」。「この本が現代人をおどろかせるのは、長年の布教の試みの末に、宣教師自身の方がキリスト教から離脱してしまうということである」[94]。「このような<現在>の一つひとつを楽しんで笑い興じているので、『天国』への期待も『神』による救済の約束も少しも必要としないのである」[94-95]。

ピダハン――「言語本能」を超える文化と世界観

*5:正確には人類の中の一部の文化の時間意識