sumita-mさんからのご指摘があり、「共同幻想」を「対幻想」に訂正します。ご指摘ありがとうございました*1。概念は原著確認して丁寧に使いたいと反省しました。
ドライブ・マイ・カーについて感想を書きましたが、
kyoyamayuko.hatenablog.com
気になった評論記事をちらほら読んでいましたが、
福嶋亮大さんのこちらの書評にグッときました。
この映画って語り方が難しい映画だと思うんですが、見事に説明しているなと思いました。
realsound.jp
村上の文学にはもともと「身代わり」へのオブセッションがある。彼の主人公はたいてい、空っぽになってしまった人生を、別の物語的存在の「代理」によって埋めあわせる。つまり、運命をいったん物語に譲渡し、アバターとしての人格を生き直した後に、もとの人生に回帰する。「でも、戻ってきたときは、前とは少しだけ立ち位置が違っている」(「ドライブ・マイ・カー」)。現実的というよりも象徴的・物語的な次元で起こる交換が、人間の「立ち位置」に変化をもたらす――それが村上の文学の「ルール」なのだ。
空っぽさ、空虚さへのオブセッション、執着
私は小説を読んでいないし、書評を読むとますます読まないまま終わりそうなんですが、それはさておき、
小説版の木野=家福と映画版ではキャラが違うらしい。
小説版では積極的に高槻に話しかけるが、映画版では受け身である。
接触をもちたがるのは高槻であって家福ではない。家福はむしろ関わりを持たないように気をつけているようだ。
小説版では高槻が家福の空っぽさを埋め合わせる存在らしい。
映画版では違いますよね。もちろん妻・音の物語の続き(欠けていたピース)を伝えるメッセンジャーとしての役割を果たしていますが。
映画版では高槻も空白な男でした。
空白な人間は他人と交換できる。
妻・音も高槻も他人に身体を解放し、誰とでもSexできる人たちでした。
あっさり自分を明け渡すことができるからこそ、あっさり浮気し、あっさり殺人も行う。
でも、その空白さは本当は何にも置き換えられない。自分でもどうしてよいかわからないものです。身に余した空白さ。高槻は身に余しているからコントロールできずあっさり殴って殺してしまう。
福嶋の言葉で言い直すと「空っぽになってしまった人生を、別の物語的存在の「代理」によって埋めあわせる。つまり、運命をいったん物語に譲渡し、アバターとしての人格を生き直した後に、もとの人生に回帰する」(上記記事引用)ことに失敗したのが音と高槻に見えます。
村上春樹にとって《妻》という存在は女一般とは異なる存在だそうです。
福嶋亮大が吉本隆明の言葉を使って説明していますが、《妻》とは「共同幻想」を修復しようとして「対幻想の故障」で終わる存在です。
【訂正】20220418ーーーーー
福嶋さんの解釈を誤読していました。
「共同幻想」はムラやクニの単位で使用される概念です。
社会通念上、「夫婦とはこうあるべきだ」という常識が夫婦にあり、その「共同幻想」を修正しようとして、個別の二人関係の「対幻想」が故障するという意味合いです。
社会一般の夫婦という思い込みの修正を試みるが、結局個別の二人の中にある共同幻想=対幻想は修正仕切れず、故障してしまうという意味だと思います。
つまり、社会通念上の《妻(とはこういうもんだ)》というものから、二人だけの関係の「対幻想」としての《妻》を受容しようとして失敗(故障)するという話なのだと思います。
男は《妻》を社会通念上の<妻>から、二人が時間を共有して積み上げた<妻>と向かい合うが、妻のほうはその<妻>からはみでるありのままの私=他者を見てほしいわけで、夫はそれがわからず対幻想が故障するわけですね*2。
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でもそれって、最初っから「共同」幻想なんて抱いてないんじゃない?って思うんだけどどうなんでしょうかw*3。「共同」幻想を抱いていると勝手に男=夫が思っているだけじゃね?という下品なつっこみはここではやめておきます。
福嶋亮大は、村上春樹の小説を引用し、
ドアを叩いているのが誰なのか、木野にはわかる。彼がベッドを出てドアを内側から開けることを、そのノックは求めている。強く、執拗に。その誰かには外からドアを開けるだけの力はない。ドアは内側から木野自身の手によって開けられなくてはならない。/木野はその訪問が、自分が何より求めてきたことであり、同時に何より恐れてきたものであることをあらためて悟った。(「ドライブ・マイ・カー」より)
要するに、《妻》を別の何かに置き換えることはできず、その喪失を素通りすることもできない。村上春樹はそのことを分かっていたから「木野」を書いた。逆に、聡明な濱口竜介は恐らくそのことを知りつつ、最終的に《妻》を封印し、韓国に渡ったみさきによって物語を完結させたのである。
と、まとめます。
小説は読んでないのでコメントできませんが、映画のこの評価はどうでしょうか。
私は「《妻》を封印」したというふうには解釈できません。
【訂正】20220418ーーーーー
この《妻》が社会通念上の共同幻想としての《妻》ならば封印という解釈もありうると思います。
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小説に出てくるノックは、映画では妻・音の不倫行為を意味するでしょう。
夫を愛しながら、男を連れ込み不倫する。
家福にとってそれは不気味なノック音だ。
だからこそ「話があるの」と音に言われて妻から逃げる。
家福にとって謎となった妻。
しかし、立場を反転したらどうでしょうか。
実は、音にとっても家福は不気味なノックを叩く存在です。
家福は見逃しているけれど、音がしていることはばれている。
これ以上、自分(=妻)を試す行為はないでしょう。
この夫婦はお互いに愛しながら、互いに不気味なノックを叩きつづけているのです。
お互いにドアを開けて欲しがっている。でもお互いにドアノブに手をかけられない。
但し、語り部が家福のため男目線でしか語らないから、このノックが女の謎として立ち現れているだけなのです。
ではなぜ互いにノックをしつづけるのでしょうか。
二人は子どもを病気で亡くします。
子供を亡くすという喪失体験を二人は共有していたはずでした。だから別れられなかった。
が、実際はその喪失、悲しみは個別のものです。
子を失っても夫婦は依存しあうように二人でいますが、子の喪失は明らかに二人の関係を変えたのです。
子を失って虚脱状態に陥った音は、1年くらい経ったあと家福と寝てエクスタシーを感じると物語を半ば無意識で語るようになります。
それを書き留めたものを脚本にして賞を受賞したことで、音は第二の人生を歩みはじめます。脚本家としてキャリアを積んでいきます。
また、音の語る物語を書き留める作業は、二人の共同作業です。
これは「対幻想」の修復と捉えてもよい作業かもしれません。
でも、実際は違いました。
高槻が家福に物語の続きを語ったことでわかるのです。
音は子の喪失を何かの代償なんかにできていなかった。
空白を埋めるように夫を愛し、他の男とも寝る。
でも子供は帰ってこない。
埋まらないのです。埋められるわけがない。
死にたいという気持ちが止まらない。だから他の男と寝るのです。
音にとって夫は辛うじて此の世にとどまらそる重石であり、取っ替え引っ替えの浮気は彼の世への欲求でしょう。
生と死の分裂、乖離。
子を亡くした喪失を実は二人は共有していませんでした。
究極の共同性とは「こども」でしょう*4。
それを失ったのだから「共同性」を修復できるわけがなかった。
二人はそれぞれに空白を抱えていただけだった。
二人とも別々にばらばらに。空白を抱えて温めあっていただけ。
お互いに叩き続けるノックとは、終わっていないかのように振る舞う日常の軋みの音だった。
壊れていないかのように振る舞っているのにそれでも忍び寄る音だった。
終わらせたくない、終わらせたい。
既に割れてしまった卵を必死に割れていないかのように温めていた。孵ることのない卵の内側からトントンとノックが聞こえてくる。それが二人の叩き続けたノック音、終わりの音だ。
《妻》音はついに思いきってドアを開けようとした。
「話があるの」と音に言われて逃げたのは家福だった。
ついに自らドアを開けようとした音の手を振り払った。
それが家福なのです。
みさきの物語は、助けられたのにも関わらず母親と第二人格の友達を見殺しにした物語です。
家福も同じです。
自分の都合で音を見殺しにしたのです。
音を愛していたのに、音の手を離して見殺しにした。
音の最後の言葉を聞けなくて、勝手に混乱している自己中な男が家福なのです。
小説の木野とは異なり、映画の家福はドアを手離した男の悔恨の物語なのです。
ドアすら触ることができない不安げな木野とはまったく違うのではないでしょうか。
映画では自分の残酷な罪と、矛盾した妻をありのまま受け入れたのが家福なのではないでしょうか。
それは妻の封印とはよべないと私は思います。
妻を封印したというよりも妻への執着を解放したと言ってよいかもしれません。
受容とは執着の解放だった。
飲み込めなかったものを飲み込んだ。
映画版ドライブ・マイ・カーは、空白への執着を解放した物語と言えるかもしれません。
ここからは余談です。
あれだけ愛していたはずの妻なのに、肝心なところで手放して妻の苦しみを共有しなかった。
勝手に共同幻想を懐き、不安に襲われて勝手に突き放す。
突き放しておきながら、突き放したことを後悔し、自分の人生はいったい何だったのだろうと嘆く。
それが家福という男です。
村上春樹らしい男の造型のような気がします*5。
夫は沈黙し妻は乖離する。
性別を逆転してみましょう。
妻は沈黙し、夫は家族を愛しながら浮気する物語は腐るほどあふれています。
一般的には、男が乖離して、女がそれに堪える(沈黙)物語が多いわけです。
実は、ドライブ・マイ・カー的な話は、よくある話の男女逆転バージョンであり、
それが村上春樹の個性なのではないでしょうか。
家福が映画で憐れに見えるのは、寝取られた男だからでしょう。
空白な者同士の自己中な家福と音はコミュニケーションで関係を改善できません。
夫婦関係(=共同幻想、対幻想)でありながら、不穏な何かを抱えていて、それを言葉では解消できない関係に陥っている。
でも、よく考えて見るならば、夫婦関係を前提にして考えるから、おかしな話になるのではないでしょうか。
夫婦関係、ニコイチであるかのような関係に村上春樹はドリームを感じているように見えます。
そのドリームを共有していない私からすると、一人で生きていけばよくないか?という話しに過ぎないわけです。
なんでそこまでして音と婚姻関係を継続させるのでしょうか(そのギミックとしての子の死別)。
覆水盆に返らず。
子だけでなく妻とも死別した男・家福。
ストレス(謎)を抱えて一緒に暮らすくらいなら一人になればいいじゃん。
さっさとその扉を開けてしまえばいいのに。
まぁ、それを言っちゃあ、おしまいよって話なんですけどね。
簡単に言っちゃえば、
《妻》や《夫婦関係》に共同幻想、対幻想を抱いている古い男の話なんじゃないですかね?
愛し合っているニコイチな夫婦関係という設定だからドリームしちゃうわけで。
カップル幻想が強いわけです。
社会の単位が二人関係、夫婦関係を前提とする物語の切なさを村上春樹は描いているのかもしれません。
夫と妻の自我を融合した何かがある、それが共同幻想です。
融合の象徴としてのセックス。村上春樹の小説によく出てきますね。
でも、夫も妻も他者同士であり、他者同士であっても共に暮らす夫婦関係もあるわけです。そこには夫と妻の自我の融合はありません。
自我が溶解せずとも成立する関係です。
村上春樹よりずっと乾いた世界線を私達は生きている。
でも、レディコミや大人向け少女マンガにありふれているのは、このドリームとの決別です。夫に「わかってもらえない」「わかりあえない」ことから様々な形で卒業していきます。
男が共同幻想を未だに夢見ようとして、でも対幻想に失敗するとき、女性達はもっと先を歩いている。あっさり共同幻想と対幻想にさよならをしているのです。
対幻想が故障するのは当然なのです。
共同幻想を夢見ているのは男なのだから。
みさきは親子関係という共同幻想を捨てた女です。
そう「女性」なのです。
家福は《妻》という共同幻想、対幻想から卒業できたのは、
自分の亡くした子と同じ年齢の女性からでした。
共同幻想ではない《妻》、《妻》からはみ出したありのままの妻をようやく受け入れることができた。
他者との向き合い方を学んだのです。